自由になりたい ~過去~
これは、自分の人生の最終目標だと思う。
別にこれまで、何かを強制されていた訳ではないし
縛られいたわけではない。
むしろ、自由に。自分がしたいように両親が育ててくれた。
勉強しろ。なんて言われたことない。
スパイクもいつも自分が欲しいものを買ってくれた。
誕生日もいつも自分が欲しいのをくれた。
高校も、私立で自分が行きたいと思ったところへ行かせてくれた。
大学も行きたいところへ行かせてくれた。
中退したい。といった時。2つ返事でいいよ。とは
なってはないけど、お前の人生だからしたいようにしろって
言ってくれた。
中学生の時、ヴァンフォーレ甲府U-15で
プレーしていた。中学2年生の時。
毎日、帰りの車で泣いていた覚えがある。
自分は、ドリブルが大好きで、いつも練習の時は
ドリブルをたくさんしていた。
しかし、1人の大人に
お前は玉乗りピエロか。1人でドリブル大会やってんのか。
って言われた。
毎回の練習で自分だけ嫌われている感じも伝わったし
その人の車。顔を見るだけで嫌だった。
試合に出るには
その人に好かれないといけないし
試合に出ないと行きたい高校すらいけないし、
周りに評価すらされない。
小学生の時は
近くのスポーツ少年団でプレーしていたし
言ってしまえば、王様だった。
いつも、自由にプレーしていた。
だから、そんなこと言われたことないし
悩んだこともなかった。
帰りの車で、お父さんに相談した。
俺、プレースタイル変えた方が良いのかなって。
どうすればよいのだろう。って。
お父さんは、
お前はどうしたいの。
サッカーしていて、どんな時楽しいの。
自分のしたいプレーすればよいって。言ってくれて
その時に
自分を貫く。ことの大事さ。強さを学んだ。
おかげで、今も
ドリブルが大好きだし、シュートが大好きだし
ドリブルばっかして、今でも怒られることもあるけど
なんとも思わない。
自分がするサッカーが好きだし
自分が表現するサッカーが好きだし。
失ったら奪いに行けばよいし。
結局、自分のドリブルで得点が生まれて
結果が出たら、なんも言わないんでしょ。
だったら、自分の好きなプレーして
自分を表現する。
別にこれは、ドリブル好き=パスしない
ではないから。
サッカーを本格的に習ったのは
小学2年生だけど、保育園でも小学1年生の時も
ずっと、サッカーしてた。
保育園のことなんて、あんまり覚えてないけど
いつも、自分の蹴ったボールが柵を越えて
道路わきの川に流れて、取りに言った覚えがある。
保育園の時も、ちょー怒られたけど
その保育園も自由なスタイルだったから
すごく大好きだった。
小学生の時は
近くに、耳の聞こえない5つ上の
おにいちゃん的存在の人がいて
いつも、学校終わり。土、日に家に、ピンポンしに行って
身振り手振りで会話しながら、ゲームしたり
サッカーしたりしてた。
家の前でリフティングしたり、シュートしたり。
他の人の家のガラスを
割ったこともあったし
穴をあけたこともあった。
土、日の試合には
必ず、お父さんが来て
ビデオカメラで、試合を撮影して家に帰ったら、反省会。
技術のことなんて1つも言われたことない。
これが一生懸命か。100%出してんのか。って
俺は、大和が手を抜いてるのがすぐわかるって。
殴られ。蹴られ。
試合会場でも、缶コーヒーを投げられ。
お父さんから走って逃げる俺。お父さんを止めるコーチ。
周りから見たらとんでもないけど
お父さんは大好きだった。
サッカーも嫌いになんてなったことなし
ずーっと大好き。
たまにお父さんと、この会話をするけど、
本当に笑い話。笑
俺らってすごいねって、いつもそうなる。
中学の時のは
食事のことで、お母さんに
もっと、食事のレパートリーを増やして欲しい。って
伝えた。
ただでさえ、帰りが22:00過ぎとかなのに
温かいご飯を用意してくれて。
伝えるのに1か月は悩んでいたと思う。
自分はいろんな料理を食べたい。
でも、それを伝えるのは失礼になる。
外食先で、帰る手前で伝えた。
空気は凍った。とても重い空気になって。
でも、次の日。
お母さんは、自分のために
スポーツ選手用の料理本を買ってきてくれて。
そこからの毎日は
高たんぱく。低脂質の
スポーツ選手に大事な食事を作ってくれた。
本当に感謝しているし
お母さんも本当に尊敬している。
お父さんと、お母さんのおかげで
小学生の時は
山梨県選抜に入っていたし
中学生の時も、飛び級で一個上の
試合に登録されていた。
中学3年生の時には
山梨県優秀選手に選ばれた。
高校では親元を離れ、前橋育英高校へ。
3年生の時には
トップチームに入り、プリンスリーグにも
出たりしていたけど
インターハイ。選手権は出れず。
コロナの関係もあり、3年生の時は
総体もインハイもなくて夏が気付いたら終わっていた。
選手権は、県大会で敗退。
初の7年連続全国の記録を止めた代。
ここ10何年で、全国に行けてないの
自分たちの代だけ。。笑
自分は、その試合を
ベンチでもなく、スタンドで見ていた。
選手権を夢見て、前橋育英高校へ行き
スタンドで3年間が終わる。
涙が止まらなかったし
両親に、会えないと思ったし
言葉にできなかった。
高校は、もう本当に濃い3年間で
話し出したら、止まらないと思う。
でも、1つだけ。
本当に前橋育英高校に行って良かった。心の底から思う。
日本で一番レベルが高くて
自分の代は本当に大好きだ。
自分たちの代は選手権だけ見たら弱いって思うけど
本当に強い代って自負してる。
実際、現時点で何人もプロが出て
これからも確実に出る。絶対。
遠征に行き、試合が終わると
着ていない方のユニフォームに着替え
帰ってきてから、自主練する。
強制なんて全くされていない。
ただ、上手くなりたい。その気持ちだけ。
前橋育英高校を心から誇りに思う。
大学は、推薦や免除。1年生からトップチーム。と
監督が評価してくれて
石川県の北陸大学へ。
1年生から、スタメンで
公式戦にも出場し、人生初の全国大会も経験した。
2年生の時。天皇杯で、松本山雅と対戦し
2-3で負けはしたが、大きなスタジアム。
サポーターの声。相手はプロ。
そんな中でプレーして、プロになった気がした。笑
両親も来てくれて、サッカーしていて
初めて、少しだけ親孝行できた。って思えた。
このままいけば、大学卒業。もしくは
途中でプロになれるかも。って思っていたけど
そんな甘くはない。
人間関係。相性。色んなことがあり
この大学で、サッカーしたくない。と思い
退学した。
プロの夢は、諦めれず、日本で、チームを探したが
色々重なり決まらず。
最後の、プロサッカー選手。
サッカー日本代表へのチャレンジで
ドイツへ挑戦することを決めた。
色々、端折ったけど
そんなことがあり、今に至る。
ドイツで今、どうなったかは
また後日、載せようと思う。
続きは
自由になりたい②で!
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