「差別」について猛烈に考えないといけない気がする
「差別」に興味がある
なんで人は差別をするんだろう。
物心ついた頃からのずっと持ち続けている疑問である。
私は「戦争」の写真や映像が見れない。前世で何かあったんか?というくらい、恐怖を感じてしまう。悪い時には過呼吸になってしまうほどである。
そんな中でも一番見ることができないのに、一番ひきつけられてしまうのが第二次世界大戦での「ユダヤ人迫害」「ホロコースト」である。なんでこんなにひどいことが出来るんだろう。私もその場にいたら、その時代に生きていたら、人を差別して、罪のない人を殺したり、忌み嫌ったりしたのだろうか。
ずっと考えていることだから、これを書いたあとに「これは違ったな」と
自分の意見をひっくり返すかもしれない。この記事に自信はないが、差別について考え続ける自信はある。
「人間」という生物の中に「差別」という性質があることに興味がある。
アメリカでアジア人が差別されているらしい
そもそも今回なぜ「差別」でnoteを書こうと思ったかというと、
コロナ禍でアジア人が差別にあっているというニュースを見たからだ。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210314/k10012914741000.html
ざっくり読むと、コロナが「中国ウイルス」と呼ばれ、それがアジア人の差別につながったってことなんだと思う。
子供を抱いた若い母親につばを吐いたり、暴力を振るわれたりしているようだ。
このニュースをみて、いい機会だし自分の考えている「差別」を今一度猛烈に考えてアウトプットしたい。誰かと共有して、みんなの意見も知りたいという衝動にかられた。
衝動でかいているから、この文章がどれくらい長くなるのかわからない。
でも、このドロドロで重たい誰も考えたくないテーマについて書きたいという自分の中のエネルギーを大事にすることにした。
だから、このnoteは自分のために書くことにする。
差別しない自信はあるか、無い。
私は葬儀社で働いている。
私の心の中のジョン・レノンが問いかける。
「想像してごらん、“金髪で青い目の人”や“肌の色が黒い人”がうちの会社に入社してきて葬儀のプランナーをやっていることを」
ごめん、ジョン、出来ない。
これが「差別」なのかもしれない。
もし、本当にそんなことがあったら「生まれは?」「どんな環境で育ったの?」「日本語は出来るの?」「日本の、ましては葬儀の文化はわかってるの?」…とエンドレスで質問が浮かぶ。
見た目が日本人と識別出来ればそんなこと考えないだろうに。
もし、そういう人が入社してきたとしても私が考える質問は大きなお世話だし、超差別的だと思う。
「お前だって、葬儀の文化、仏教の文化、マスターしてんのかよ」と
言われたら一撃で言葉を失う。
その人の「やりたい」や「生き方」を肌の色や見た目の違いで判断して
変に気を使ったり、相手が失礼だ、生きにくいと思うことをしてしまった時点でアウトだと思う。
その人の「自由」を勝手に私が狭めてしまっているのだから。
自分と同じ人なんていないのにね
「同じじゃない」のが怖い気持ち。わかる。
だって、同じじゃないとどうやって気持ちを伝えあえるのかがわからないから。
「自分の利益・存在が誰かの手によって脅かされる」のが怖い気持ち。わかる。
だって、必死に守りたい物や自分自身が、自分以外の誰かによって脅かされたら憎むし、つらい。
「それを国単位で、見た目のちがいでやってしまう。」わかるけど…よくない。
わかってしまうから難しい。自分にも卑しい差別をしてしまう思考が
自己防衛本能で組み込まれているのかもしれない。嫌になる。自信がない。
自分と同じ人なんていないのに、良い感じに人間をカテゴリー化して、良い感じに自分のが優位だとマウントをとって。
みんな「ヒト」ってことで一緒なのに、環境や文化・風習、見た目の違いを、受け入れて愛することも出来るはずなのに、憎んでしまって大暴走してしまうことがある。
差別で世界がよくなることはない。でも差別は多分なくならない
「差別」をしてしまった、している時は目の前のことにしか集中してないのではないか。
みんな幸せに向かって生きている。
自分の幸せを脅かすカテゴリー人間がいる。だから差別した。
それって大きな目でみたら、自分自身も幸せに向かってないんじゃないかな。
人の幸せを脅かして、自分が幸せになるなんてどうかしてる。
それで本当にスッキリするのだろうか。
モヤモヤがたまるのではないだろうか。やった方も、やられた方も幸せじゃない気がする。
みんな幸せにむかって生きてるんだから、自分の幸せを脅かす人がいるなら、その人同士で話し合いなよ…みんなを巻き込むなよ…。
でも人間は巻き込まれる。
「物語」を信じるからだ。ある人が「あるカテゴリーの人が悪いことをした。全員同じ思想を持った危ないカテゴリーの奴らだ」とみんなが信じられる物語を語れば、みんなそのカテゴリーの人を敵とみなす。
そのカテゴリーの人たちと話をしたことがなくても物語を信じれば、敵は敵なのだ。
誰かが語った「物語」のせいで差別はなくならない。「物語」は伝承出来るから。
私の大好きなLADY GAGAは差別を「広大な森」に例えていた。
https://www.universal-music.co.jp/lady-gaga/news/2020-06-12-2/
根深く、どこにでもあって、取り除こうとしても跳ね返されてしまうもの。
すごいわかりやすいので是非みてほしい。
GAGAはこの古い森を切り倒し、植え替えて、あなたが抱く理想を実現することができるのです。と語る。
〇〇なんてどうでもいいよねが第一歩…かな?
「肌の色、目の色、文化の違い、生まれ育った環境」
どうでもいいね!あなたと私はヒトとヒトなんだから。
苦手だったら離れればいいし、好きだったら一緒にいればいい。
同じ人種の人と同じように接することが出来るようになりたい。
これは私の理想。
私の中から差別という思考を排除するために、
人種、人のカテゴリーとしての〇〇なんてどうでもいいよね。ヒトとしてよろしくやってこうぜ。
そういう思考を私の差別の森を伐採して代わりに植えたい。
マイケル・ジャクソンも言っていた。
But, if you’re thinking about my baby
It don’t matter if you’re black or white
愛しい人を想うなら
黒人か白人かなんて、どうでもいいんだ
愛しい、好きな相手なら、〇〇なんてどうでもいいよね。
嫌い、憎い相手でも、その人に非があるんだから、他の人巻き込まないでよね。どうでもいいでしょ。
答えを見つける旅はまだまだみつからないし、全然まとまってないけど
考えることに意義があると信じて。
差別をを知るために、人間の憎しみ、悲しみを知って、受け止めることができるように。考えられるように。
私の会社にどんな人種が、いや、誰が入ってきても究極どうでもいい。
そのヒトとヒトとしてよろしくやるだけだ。
ここからはじめよう。
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