見出し画像

映画『劇場版モノノ怪 唐傘』と『めくらやなぎと眠る女』

映画評については、僕は自分のブログにだけ掲載していて、ここ note には何かのお題に応募するとき以外は上げないのですが、最近書いた2つの映画評(僕は「感想文」ではなく「評」だと思っています)が、映画の見方等に関して今まで note に書き散らしてきたことと密接に通じ合っている気がしたので、ちょっとここにも併載してみることにしました。

以下がその2つです:


映画『劇場版モノノ怪 唐傘』

映画『劇場版モノノ怪 唐傘』を観てきた。

テレビでシリーズ化されていた番組の映画化というのは、その番組の視聴者であったことをある程度前提にしていることが多いので、自分がそれを観ていなかった場合僕はあまり観に行かないのだが、この映画は別だ。

予告編を初めて観たときにいっぺんで魅了されてしまった。

映画のことを書く時に一切カメラワークに触れない人がいることを僕は常々不思議に思っているのだが、アニメであっても画作りに全く触れない人にはなおさら驚いてしまう。いずれも映像芸術なのに、その部分に対する感想はないのかな?と思ってしまうのである。

別に難しい映像技法について勉強して書けと言っているのではない。全ての映画で画作りについて触れろと言うのでもない。ただ、ドラマやアニメを観たら、その構図とか動きとか光線の具合とか画面の色合いとかに、なんか思うことはあるでしょ?ということである。たまに、おおお、この画はすごい!とか思いませんか?ということである。

このアニメの場合、それはテクスチャと彩色である。

和紙テクスチャのスクリーン上でアニメーションが動く。しかも、伝統的な日本の色と西洋的な中間色のパステル・カラーを組み合せてある。

画面はレイヤー構造になっていて、適度な透過性を設定してある。このミクスチャは絶妙である。

そして、目を瞠るのがキャラクター・デザイン。

着物や髪型は和なのだが、顔立ちはアニメ風で、髪の色も目の色も多彩である。髪や目の色がカラフルなのは昨今のアニメでは当たり前かもしれないが、時代劇でこれをやるところがユニークだと思う。とりわけネイルは現代そのものではないか。その一方で、たびたび映る手の甲のシミ!

さて、舞台は大奥なのだが、実際の大奥があんな見た目であったはずがない。目眩がするほどの饒舌な装飾。そして、画面の奥行きの深さ、広範囲に描き込まれた細部の精密さ。

日本建築の壁に襖に天井に床に、人や動物や物の怪などの絵と極彩色の意匠がべったり貼りついている。

しかし、そこには大和だけでなく中華があり、その他にも何やらエキゾチックなものが溢れている。浮世絵があり、絵草紙的なものがあり、ひょっとしたら西洋絵画まで。

背景と人物の両方が猛スピードで動く。膨大なカット数。頭がクラクラする。

キーワードは「合成の誤謬」ということらしいが、それに囚われて観る必要はない。

話としては、大奥に現れた物の怪「唐傘」を薬売りが祓う物語。アサとカメという2人の少女が大奥に女中として奉公に上がった初日から展開して行く。

全く常人には理解できない強烈に不思議なスペースとして、大奥は描かれる。

カメはただ大奥のきらびやかさに憧れて、いつか天子様に見初められたいとやってきたミーハーな娘。何の特技もない。対してアサは言わばキャリア・アップを目指して大奥に入った娘。何をやらせても実務能力が高い。

2人は初日から意気投合するが、カメは常に落ちこぼれ、アサは一気に出世街道を駆け上る。

2人が大奥に入ったのは、中臈の出産を祝う儀式を目前に控えた時期。しかし、本来は出産前に行うはずの儀式が出産後に延期されている。なぜそんなスケジュールになったのか誰も知らされていない。加えて、その時期に失踪した祐筆がいて…。

普段の生活のシーンも、薬売りと物の怪の闘いのシーンも、いずれも圧巻である。

この美術はすごい。べらぼうな映像芸術である。

そして、エンドロールがこれまたすごい。キャストやスタッフは一般的には横書きで縦に流れて行くが、これは時代劇なので縦書きの名前が横に流れて行くのだが、単純に右から左に横滑りするのではなく、背景画像と合わせてみると、同じところをグルグル回っているのである。最後までクラクラする映像だった。

続編が制作されそうな終わり方だったので、もしあるなら何が何でもそれも観たい。

映画『めくらやなぎと眠る女』

映画『めくらやなぎと眠る女』を観てきた。

吹替ではなく字幕版を観たいなと思ったら、昼間はどこの館でも吹替版しか上映しておらず、夜まで待たなければならなかった。で、てっきりフランス語だと思ったら英語だったので驚いた。

しかし、これ、英語版で観て良かった。日本語版を観ないで言うのもアレだが、英語版で観るのが一番良いのじゃないかな。

英語という言語を通じて世界観が非常にしっかり確立されていたし、解りやすい英語だったこともあって、英語を聴きながら日本語字幕を見ると、両方の情報が補い合って一番良く理解できるのではないだろうか。

ただ、例えば作中のテレビの音声などは基本的に英語なのだが、筋に関係のないノイズとしてのテレビの音声や、病院での呼び出しの声などが日本語なのは少し奇妙だった。監督は元々日本語版で撮りたかったということと関係しているのかもしれないが。

で、映像のほうは、冒頭の、真っ暗な中を螺旋階段で地下に降りて行くシーンから描き方が秀逸だと感じた。なるほど、こういう描き方があるのか、と。

そのシーンだけではなく、ありとあらゆるカットで線画であることの特徴が見事に活かされていた。つまり、3DCG では絶対に描けないだろうということ。

例を挙げるとすれば、人やものが時々“ほぐれて” 切れ切れの線になってしまうところとか、ところどころ人物や背景が透けていたりするところとか…。

そして、この画風で描くと、それぞれの登場人物が(片桐のおっさんやかえるくんまでも)なんだか異常に“生々しく”て“なまめかしい”のである。この味はこの画でないと出ないだろう。

まずは実写版として実際の俳優が演じる形で撮影し、それをアニメ化するという手法で作られたという。

そのそもこの作品は村上春樹が日本語で書いた小説を、誰かが英語に翻訳して、それを読んだピエール・フォルデス監督がストーリーボードを書き、それを基に実写版が英語で撮影され、それに絵を当てはめてアニメができ、その英語版に日本語字幕がついたものを僕が観ている(人によっては日本語版のアフレコを観ていたりもする)という、めちゃくちゃたくさんのフィルターを経ているわけで、その構造が作品を面白くしている気もする。

さて、この映画は村上春樹の6つの短編を再構成して繋げたものなのだが、これが元からこういう長編小説だったのではないかと思うくらい、見事にまとまっているのである(これを村上春樹が“リバース・ノベライズ”したらノーベル賞だって獲れるかもしれないなどと思ってしまった)。

村上春樹の小説が映像化された場合、(昔はそうでもなかったのだけれど)ここのところ僕にはいつも「なんか違うな」という印象が残る(もちろんこれは僕の個人的な印象であって、そうは感じない読者/観客もいるのかもしれないが)。

濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』では、「これがあんたの村上春樹解釈なのか!」と叫びたくなったぐらいだが、この『めくらやなぎと眠る女』については、そもそも原作小説の印象から外れているかいないかということ自体、全く気にならなかった。

これは監督であるピエール・フォルデスが、濱口竜介とは全く違う意味で、完璧に消化しきった作品になっていたと思う。

村上春樹の盟友と言って良い柴田元幸は「『原作にこう書いてあったからこういう絵にしました』みたいな『なぞり感』がないから、観ていてずっと惹きつけられますね」と言っている。

しかも、この監督、元々は画家で、次に音楽家になり(この映画の音楽も自身で手掛けている)、父親はコンピュータ・アニメーションの草分け的な存在であり、その父の影響もあって後からアニメ制作を学んだというだけではなくて、この映画においては英語版でも仏語版でもかえるくんの声を自分で演じていると知って驚いた。

アニメが苦手だと言う村上春樹が、フォルデス監督に対しては「どの作品を選んでも良い」と許可を出し、「楽しかった」と感想を述べているくらいである。何しろ村上春樹の全短編を読み直したと聞くと、それだけのことはあるなあと思う。

そのフォルデス監督はこの映画のことを「目を覚ました人々の話」と言い、「互いに絡み合う物語が描きだすのは、人生を一変させるような出来事が実存的な目覚めへのトリガーになっていく様子である」と、なんか思いっきりフランス人っぽいことを言っている。

そして、パンフレットに一文を寄せている三宅香帆は「私たちはショックな目に遭うと、まずは痛みを麻痺させてしまう」「猫とは、やわらかな痛みの感覚と向き合うために必要な存在として描かれている」と分析している。

どちらも素晴らしい解釈だと思う。

映画に何らかの形で取り込まれた7つの短編のうち僕が読んでいるのは多分3作で、しかも例によってそこそこ憶えていたのは『かえるくん、東京を救う』ぐらいしかなかったのだが、随分楽しんだ。

一方映画が終わった瞬間に、「ひとつだけネタ元が分からなかった」と連れに言っている人がいて、世の中にはそんなすごい村上ファンもいるんだなと痛感したが、まあ、憶えていようがいまいが、どっちにしても楽しめたのではないだろうか。

さて、最後にとても気になったのは、これほどの作品を観ても「伏線が回収できていない」と怒ったり酷評したりする若者がいるのかどうかということである。

世の中にあるよく分からないものを一つずつ全部分かるようにしてくれるのが小説や映画なのではなく、世の中にはよく分からないものがあるということを分からせて、それを読者や観客に考えさせるのが小説や映画なのだと僕は思っている。

以上

この2篇はひょっとしたら画作りの話に寄り過ぎていて、「脚本とか声優の演技とかについて、もっと書くことないんかい」と怒られるかもしれませんが(笑)


この記事を読んでサポートしてあげても良いなと思ってくださった奇特な皆さん。ありがとうございます。銭が取れるような文章でもないのでお気持ちだけで結構です。♡ やシェアをしていただけるだけで充分です。なお、非会員の方でも ♡ は押せますので、よろしくお願いします(笑)