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荒れるソーシャル・メディアを考える──あなたはそこに行ったことがあるか?

僕は2009年に twitter を始めましたが、そのころの、言わば日本における黎明期の twitter は、嫌なことをつぶやく人がほとんどいない、とても快適な空間でした。

たまに嫌なこと、攻撃的なことを書く人が現れても、皆でそれをガードしようという雰囲気さえありました。

例えば、あれはアカウントを作って2年目ぐらいだったかな、僕に対して所謂いわゆるクソリプをぶつけてきた人がいて、僕が「けったくそ悪いツイートを読みたくないので、そのツイートが早くタイムラインの下のほうまで行って視界から消えるように、みんな、何でも良いから僕にツイートしてくれませんか?」とつぶやいたら、僕のタイムラインがあっという間に好意に溢れたメンションで埋め尽くされ、その悪意のツイートが見えなくなったのをよく憶えています。

でも、それも今は昔です。

今では X には悪意に満ちたポストが溢れ、決して攻撃的でも全面否定でもない穏やかな考察でさえ、「これはちょっと怖くて書けないな」と思うことが増えてきました。

でも、こと note に関しては、他のソーシャル・メディアのように荒れることは少ないとずっと言われてきましたし、僕自身も快適な空間だと長らく思っていました。

ところが先日、その note でも、あることに対して素直に謝っている人に対して、複数の人がその記事のコメント欄でその人を叩きに行っているのを目の当たりにしたのです。正直げっそりしました。

なんで素直に謝っている人を叩きに行くのか、僕にはその気持ちが分かりません。

あるいは、僕には素直に謝っているように読める文章が、ひょっとするとその人にとっては素直に謝っていないように読めたのかもしれません。そうだと言われたら仕方がありません。それが読解力の不足なのか感じ方の違いなのかを争うのは不毛です。

でも、何であれ、何故わざわざ叩きに行くのが分かりません。叩けば気が晴れるからでしょうか? でも、それはコミュニケーションではないですよね?

もちろん僕だって自分が直接被害を受けたのであれば反撃します。でも、そうでないなら、そして、その人が謝罪の意を表明しているのであればなおさら、「けしからん!」と言って責める必要を僕は感じません。

自分と直接の利害関係のない人を、彼/彼女が地面にひれ伏すまで叩きのめしてやろういう気持ちが僕には分からないのです。

もし、その人の記事に違和感を覚えるのであれば、そのコメント欄にひどいことを書くのではなく、自分の note で自分の考えを記事にします。できるだけ冷静に、理路整然と。

相手は謝っているのです(仮に謝り方が不充分であったとしても)。そして、明らかに落ち込んでいるのです。そこに鉄槌を下すのが正しいことなのでしょうか? あるいは、それはあなたがやるべきことなのでしょうか?

自分だってそういうことはあるでしょう?
まずいことをやってしまったことも、謝っているつもりが相手にはそう受け取られなかったことも、そんなこんなで落ち込んでしまったことも…。

そういう気持ちが読み取れない人が叩きに行くのでしょうか?
そもそも他人の気持ちなんか読み取る気がないんでしょうか?
僕は少し考え込んでしまいました。

ソーシャル・メディアは「思ったことを自由に言える場」ではありません。僕はわりと早い時期にそのことを悟りました。

長年にわたって自分のホームページやブログを書いてきた中で、いくつかのトラブルも身をもって経験しました。

twitter についても、やりはじめて間もなく、「ここは公の場なんだな」と気がつきました。一度だけダイレクト・メッセージでお互いに激しく非難し合ってしまったこともありましたが、そういう経験に懲りては自分のコミュニケーションをチェックし、どうあるべきかを考えてきました。

いや、それよりずっとずっと前に、会社に電子メールというものが実験的に導入され(とんでもなく古い話ですみませんw)、僕がそのメンバーの一人として加わったときに、僕よりずっと若い他のメンバーの発言に頭にきて、彼を激しく攻撃してしまい、後輩にいさめられたこともありました。

今ではあまり使われない用語になってしまいましたが、所謂フレーミングですね。framing ではなく flaming です。「枠」ではなく「炎」。「炎上」の「炎」。僕が独りで燃え上がってしまったのです。

それが全ての ITコミュニケーションのスタートかな。

そういういろんな経験を通じて、自分の愚かな感情がどんな風に動いてしまうのかを知り、メールもソーシャル・メディアも、「井戸端会議や居酒屋じゃないんだ。思ったことを何でも言えば良いってもんじゃないんだ」と気がつきました。

インターネット上のコミュニケーションは、たとえて言うならテレビ番組(政治討論会でもワイドショーのトークでも良いのですが)に出演しているみたいなもんです。何であれそこは多くの視聴者に見られている場です。そんなところで「死ねばいいのに」とは誰も言いません。言ってはいけません。

あるいは、別のなぞらえ方をするなら、自分とは長いつきあいの、気のおけない親友に対しても言うのが憚られるようなことは、直接の知り合いではない人に対してはそもそも言うべきではないのだ、とも言えます。

誰でも言ってはいけないことを言ってしまって、「しまった!」と思ったことがあるでしょう。そういう経験が次に生きているはずです。

誰でも言われたくないことを言われて落ち込んだことがあるでしょう。そういう経験が次に生きてくるはずです。

でも、彼らにはそういう経験がないのでしょうか?

◇ ◇

話は少し変わります。

英語には、相手が何か辛い体験をして悩んだり落ち込んだりしているときに、その人にかけてあげる、とても素敵な表現があります。 それは

I’ve been there.

です。

直訳すれば「私はそこに行ったことがある」です。もちろん単純にそういう意味でも使いますが、この場合の「そこ」とは「あなたが今経験している逆境」の意味で、つまり、「私にも今のあなたと同じような辛い状況を経験したことがある」ということです。意訳するなら「分かるよ、その気持ち」みたいな感じかな。

でも、直截ちょくせつに「分かるよ」と言わず、I’ve been there と言うところが素敵だなと僕は思うのです。

いきなり「分かるよ」なんて言ったら、「お前に分かってたまるか!」と言われるかもしれませんよね。だから、ただ「俺にも同じような経験があるよ」と言うほうが、僕には暖かみがあるように感じられます。

もちろん場合によっては、

I’ve been there. I know how you feel.

と続けても良いのかもしれません。

また、相手が自分に対して何かまずいことをしてしまったと気に病んで謝ってきたのであれば、

It's okay. I've been there.

などとも言えます。

いずれにしても、要は今の自分が相手に対して I've been there と言えるかどうかだな、と、僕はそんな風に思っています。

僕はそこに行ったことがあります。あなたはそこに行ったことがありますか?

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山本英治 AKA ほなね爺
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