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ドラマやアニメで、台詞で全てを伝えようとすることの功罪について

たまたま読んだ『映画やドラマを観て「わかんなかった」という感想が増えた理由』という記事に強い衝撃を覚えました:

ドラマやアニメを早回しで見たり、台詞のない場面を飛ばして見たりする人がいるということもさることながら、一番驚いたのは作り手の側もそちらに歩み寄ってきて、台詞で全てを説明する作品が増えてきているということです。

そして、台詞で親切に全てを教えてくれる作品でないと、「分からなかった」=「つまらない」という評価を下されるとは、もはや言語道断、このままでは日本のコンテンツ制作は一体どうなってしまうのでしょう?

確かに、日常のコミュニケーションにおいては、できるだけ言葉にして伝えるということが大切です。それが一番確実な伝達方法だからです。

「言わなくても分かるだろう」とか「空気を読めよ」などと言うのは、伝える側の甘えであり奢りでしかないと私自身も考えているので、できるだけ裏のない、正確な言葉にして伝えることを日頃から心懸けています。

でも、一方で、人間のコミュニケーションというものはどうしてもその範囲だけでは収まらないのです。

私たちは耳や目から入ってくる言葉の情報だけではなく、ある時は相手の口調であり、表情であり、または何となくの態度であったり、あるいはその相手とのこれまでのやり取りの記憶であったり、現在彼/彼女が置かれている状況であったり、いろんなものを参照しながら、相手の表そうとする意味を掴み取っているのです。

もし、そういうもろもろのものを全く読み取れなくなってしまうと、いくら言葉を正確に解釈できたとしても、必ずどこかで齟齬が出て来るはずです。

だから、ドラマでの重苦しい無言のシーンや、心とは裏腹なことを喋っている主人公の心情などを読み取る──そんな能力も必要なのです。

ましてや、ドラマやアニメなどの作品は日常の communication ではありません。それは expression なのです。コンテンツのエクスプレッション=表現はただ言葉を意味どおりに並べるものではないのです。

本を読んだり映画を観たりするときに、私はいつもこれは感性と感性のぶつかりあいであり、闘いであると感じています。

作者は作品中の文字通りの部分を超えてどれだけのことを伝えられるか、読者/観客は作者が意図しなかったことを含めてどこまでのことを感じ取れるか──それを試されているのだと私はいつも思っています。

登場人物のひとりがバタンッと荒々しくドアを閉めて出ていった後、どうして画面には無人のドアが2秒間も映っていたのか?──そんなことを考え、感じながら観るのが「鑑賞」という行為なのではないでしょうか?

早回しで見るのも飛ばして見るのも各人の自由なので、それをコンテンツの供給側が阻んだり咎めたりすることはできません。

でも、視聴者が早送り/飛ばしボタンに触ることも忘れて目を留めてしまうようなコンテンツを作ることこそを、本来作り手側は目指すべきなのではないでしょうか?

それが今の時代のサービスなんだと視聴者に阿って、全てを台詞に書き込むようなドラマを提供することは、作り手にとっても視聴者にとっても、ひいては日本社会全体にとっても、決してプラスにはならないことのように思います。

表現というものは非常に深遠なものです。言葉で正確に伝えるというのは、そのごく一部でしかないのではないでしょうか?

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山本英治 AKA ほなね爺
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