関白とスニーカーの頃
先日、カラオケに行った時に友人が『関白宣言』を歌ったのですが、それを聞いていた別の友人が、「こんなの、いまだったら完全に差別で歌えないわよねえ」と言いました。
確かにそうでなんですよね。ただ、さだまさしの巧妙なところ(と言うか、僕としては「悪質なところ」と言いたいのですが)は、歌詞の中でこれから妻になる女性にまさに関白的、男尊女卑の権化のような要求を山ほど積み重ねておいて、最後に「できる範囲で構わないから」と添えて締めているところです。
末尾に付け加えたこの一行にうっとりした婦女子のファンも確かに多かったのではないでしょうか。
「だから、できる範囲で構わないって言ってるじゃないですか。僕はそういう優しい男なのであって、決して女の子に何かを強制したりはしていません」みたいな嫌らしい口説き方だと、当時僕は思いました。
最後の最後になって突然
などと言う辺りもなんとあざといのでしょう。
この歌は発売当時でも少しは物議を醸したりもしましたが、でも大問題にはならず、歌は大ヒットしました。
あの時代、こういう女性像を抱くことは好ましくないという考え方は既にありましたが、基本的に何を考えるのも自由であって(考えるだけであれば、それは今でもそうです)、でも、実はそういう女性観を公共の場で公衆にアピールすることの功罪については誰も考えませんでした。あの時代はそういう時代だったのです。
そう、あの時代はそんな歌が星の数ほどありました。例を挙げ始めたら切りがないのですが、少しだけ挙げると、
という歌詞が出てくる『瀬戸の花嫁』とか、辛いことがあると男は酒を飲んで女は涙を流すのだという『酒と泪と男と女』(河島英五作詞作曲、1976年)とか…。
小さい頃から何かというと父親に「男やったら泣くな」と言われ続けて育ってきた僕には、そして、辛いことがあっても下戸で酒が飲めない僕には、いずれも少し反感を覚える歌でした。
そういう固定観念に対する意見が割と言いやすい時代になってきたのは良いことだと思っています。
チューリップの『虹とスニーカーの頃』の
という歌詞を聞いて、後半部分は「自分を許さないのは彼女の罪だ」と居直る男の、さらに理不尽なわがままさを描くことによって、批判的に、かつ自虐的に歌った歌なのだ──と僕は解釈したのですが、財津和夫がそういう意図で書いたのかどうかは分かりません。
でも、これからの時代は、そういう風に解釈しないととても聴けない歌になるのではないかという気さえします。