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日本人であることの息苦しさ

日本にげっそりすることがある

ときどき自分が日本人であること、日本人の社会で生きていることにげっそりすることがある。

日本人は往々にして論理ではなく情動で動いてしまう。だから、日本は法治国家ではなく情治国家なのだと揶揄されたりする。僕はそれをとても生きにくく感じる。

何故なら感情は共有できないからだ。

ひょっとすると、あなたが悲しむと僕は嬉しいかもしれないし、僕が喜ぶとあなたは悔しいのかもしれないのだ。あるいは、全く同じことをされてあなたは嬉しいのに僕は不愉快でたまらないのかもしれない。

だから感情で動くと軋轢を生むことがある。感情の多数決で押し切ると、なおさら少数派に対する理不尽な暴力になりかねない。

それに対して論理は冷静に(完全ではないにしてもかなりの部分で)共有できる。だからこそ論理を学び論理を共有して論理で動く社会であってほしいと僕は思う。

また、よく言われるように日本の社会はあまりに同調圧力が強いことも生きにくい理由のひとつである。僕と妻が長らく円満な夫婦関係を保って来られたのは、2人とも「同調圧力なんかクソ喰らえ。みんなと同じで何が楽しいか!」と思っているからではないかと思う。

僕ら自身は他人が僕らのことをどう見ているかということをあまり気にしていない。しかし、他人がどう見ているかを極度に気にして生きている人たちの集団に押しつぶされそうになることがある。

そして、いくら日本社会が嫌いだと言っても、僕はその日本社会で生まれて育てられ、長らくそこにどっぷり浸かって生きてきたのである。そう、そういう環境で生きてきてしまったのである。

だから、アメリカ人と同じように論理的に語れているか、集団の中でしっかり自己主張できているか、きっぱりとイエス/ノーを打ち出して行けているかなどと問われると、論理的に語れてはいると思うが、残りの2つについては決して十全にはできていないのも確かである。

そして逆に、自己主張をしないことこそが、日本の社会では、間違いなくある種の処世術になっている。そういう中で生きて行くために、僕は意に反してとても辛い選択をすることになる。

覚悟して主張し、出る杭となってあえて打たれることもあるにはあるが、そのことによって自分が不利益を被ることがはっきりと見えているとなると、却々踏み出せないのも事実である。

これだから日本は、と思ってしまうことがある

日本人や日本の社会が嫌になってしまう瞬間というのは今までに何度もあったが、その中で特に思い出すことをここに書いておきたい。随分昔の話ではあるが…。

僕は大阪の放送局に勤務していた。そして、そのうちの 15年間は営業局に所属していた。そんなある日(多分 2003年か 2004年だ)、某大手広告代理店が事務所移転をしたのである。

放送局の営業マンの商慣習として、こういうときは何かお祝いをするのが常であった。しかし、そのときは珍しいことにその大手広告会社から「お祝い品等は固辞させていただきます。どうかお気遣いなく」みたいな連絡が事前に来たのである。

それで、上司と僕と、僕の同僚の3人で「どうしようか」という相談をした。僕は「どうしようかも何もないだろう、先方がいらないといっているんだから」と思っていたのだが、その時点で営業経験が僕より長かった上司と同僚は「そうは言うてもなあ」「そうですわな。一応やっときまひょか」などと言っている。

僕は驚いたが、結局お祝いの品を贈ることになった。そういう場合の定番は白い胡蝶蘭である。値段は花が何輪咲いているかによるが、いずれにしてもひと鉢で何万円もするやつ。それを僕と同僚で選んで贈る手配をしたときには、僕はまだ「相手を怒らせなければ良いが」などと思っていたのである。

そして、移転当日、当然我々はお祝いを言うために先方に伺った(これも我々の商慣習だった)。そして驚いた。

新事務所の受付から事務所内の廊下にかけて、各社から届いたおびただしい数の胡蝶蘭の鉢が巨大花店の如く並べられているのである。いや、どんな大きな花屋でも胡蝶蘭をこれだけ置いている店はあるまい。

僕は心の底からげっそりした。

この広告代理店が「今後はそういう気遣いはお互いにやめるようにしたい」と真剣に考えていたのか、それとも「どうせ送られてくるだろうけれど一応言っておこう」という程度だったのかは分からない。しかし、いずれにしてもこの会社が我々に送ってきたメッセージは、かなり多くの会社によって踏みにじられたのである。

何であれ僕は、僕の言った言葉を信じて、あるいは信じてくれなくても構わないから僕の言葉に沿って行動してほしいと思っている。

仮に、万一「ほしい」と思っていながら「いらない」と言ったのであったとしても、だからと言って僕にそれをあげようなどとは考えないでほしいのである。

そうでないと世の中がめちゃくちゃ面倒臭いことになる。「いらないと言っているけど本当はほしいのだろう」「いらないと言われてもそういうわけには行かん」みたいなことで判断されると、じゃあ、何のための言葉なのか?ということになる。

僕が「いらない」と言ったらいらないのである。

コミュニケーションはあくまで言葉によるメッセージに基づいて行われるべきである、というのが僕の考えだ。

もちろん、上に書いたようにきっぱりと自己主張できない日本人もいるだろう。そういう人に気遣いをするのも悪くないかもしれない。でも、気遣いは気遣いとして、「いらない」と言った相手に送りつけるような真似が良いとは思えない。

そして、何よりも、言葉でちゃんと自分の思いを伝えられるような社会に、いい加減そろそろ脱皮しなければと思うのだが、皆さんはそんな風には感じないだろうか?

日本には 100社以上の放送局がある。恐らくその全社がこの大手代理店と取引があったはずだ。そして、この日にこの事務所に並んでいた胡蝶蘭は、数えてはいないが数十はあった。しかし、多分 100鉢はなかったと思う。

ということは、当日お祝いの品を贈らなかった放送局があったということだ。その会社の担当営業マンは間違いなく上司にどやしつけられたと思う。それを思いやると暗澹たる気分になった。

もう、そういう社会はやめようよと、その時思ったことがいまだに時々脳裏に甦ってくる。

それから日本は変わっただろうか? 変わったとしてもほんの少しであるような気がする。

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