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『海に眠るダイヤモンド』と『アオのハコ』から好意について考える

ドラマやアニメでは、誰かに恋心を抱かれているのにそれに全く気づかないというシチュエーションがよく描かれます。

例えば僕が今観ているものでは、『海に眠るダイヤモンド』では朝子(杉咲花)は鉄平(神木隆之介)のことを子供のころから一途に好きなのに、鉄平は全くそれに気づきません(第3話の最後でやっと少し気づきましたが)。

アニメ『アオのハコ』では、雛は大喜のことがずっと好きなのに、大喜は千夏先輩に夢中で、雛の気持ちには全く気づきません。

これら以外にも、学園モノのテレビドラマや映画ではそういう状況が繰り返し繰り返し、何度となく描かれてきました。

しかし、そんなことってそんなにしょっちゅうあるんだろうか?と僕は思うのです。

「それは、お前が女性に好かれないのでそういう経験がないだけのことだ」と言われると、まあ全面否定はできませんが(笑)、しかし、人間って他人の好意に対してはもう少し敏感なものじゃない?というのが僕の実感です。

モテ男でも何でもない僕でも、長い人生にあっては、自分が好かれているなと感じたことはあるんです。しかも何度か。

中には「いや、困ったな」としか思えなかったこともありましたが、逆にそこから彼女を意識するようになって恋に発展したこともあります。

ま、しかし、なんであれ、好意を持たれていればフツー気づくだろ?と思うのです。

もし、本当に気づいていないなら、普段からもっと気を配ってみてほしい。そして、一日でも早く気がついてあげてほしいと思うのです。そして、もし好意に気づいたなら、それをしっかり受け止めてあげてほしいと。

僕は今、こんな風に思っています:

「好き」というのは相手を全人格的に認めることです。
だから、自分に好意を抱いてくれている人、自分に好意を抱いて自分のことを認めてくれる人と「一緒になる」(結婚という言葉を避けるためにこういう表現にしました)のが、幸せになるのに一番近い道ではないか?

と。

いや、確かに僕も若いころはそんな風には考えられませんでした。むしろ、好きになられたからと言ってそれに乗っかるのはカッコ悪いとさえ思っていました。

それも仕方がないです。若いころにはとかく、自分を好いてくれる人ではなく、自分が好きな人と「一緒になりたい」と思うものです。何故ならそっちのほうがチャレンジングでカッコいいから。

でも、自分が好きな人が自分を好きになってくれる保証はどこにもありません。ひょっとするとそれは茨の道であり、レッド・オーシャンであるかもしれないじゃないですか。なのに若者はまずカッコよくあろうとするんですよね。

でも、もしも自分を好きになってくれた人を好きになれたなら、それほど幸せなことはないのではないかなと、今では僕はそう思っています。何故なら自分を好きになってくれた人は最初から自分を評価してくれている人なのだから(もちろん、相手が自分のことをとんでもなく勘違いしているケースもあるので、その辺は難しいのですが)。

長いこと生きてきて、最近ではそんな風に感じるようになってきました。

誰かの好意に気がつくこと先決ですが、もしも誰かの好意を感じたら、その人を好きになれそうかどうか、その人は自分にとって全面的に認めることができそうな人なのかどうか、まずは冷静に観察してみるのが良いのではないかと思っています。

僕は『海に眠るダイヤモンド』の朝子と『アオのハコ』の蝶野雛が愛おしくてたまらないのです。

少なくとも朝子は鉄平を、雛は大喜を、「ここは良いけどここはダメ」みたいな見方はせずに、全人格的に評価し、全人格的に愛してくれているから。

そんなことって、人生でそうしょっちゅうあることではないと思います。

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山本英治 AKA ほなね爺
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