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思索ノート 2025.2.20

2025.2.20-1

 アートというのはオリジナルがよいという先入観が一般的にはあるわけだけれど、『しくみの内側のしくみ』はそれを逆手に取っているというか、レシピ本や編み物や綾取りの本みたいに、アートの〈再現性〉が前面に打ち出されている。
 それで思い出したのは青木淳悟の『四十日と四十夜のメルヘン』で、あれも何というかそういう手順とか、再現性みたいなものがひとつのモチーフになっている。実際に主人公の先生に当たる人のデビュー作の創作プロセスが事細かに語られる部分もあり、それが不思議だった。
 僕はわりと読書をする方で、実際にはハウツー本だって大いに読んできたのだけれど、あまりそのことをよろしく思っていない節がある。低俗なものとまでは言わないが、ちょっと恥ずかしい。後ろめたさもある。だけど坂口恭平の著書や発言などに触れるなかでそういう考え方も変わってきた。
 ある種のコンセプトであり、同時に本音でもあるというか──考えてみればその起源は小説や芸術と同じくとても古いはずだし、多くの人を実際に生かしてきたはずだ。そういう表面的ではない〈ハウツー〉の存在感については、もう少し深く考えてみなければならない。

【メモ 2025.2.9】

コイズミアヤ『しくみの内側のしくみ』
レシピ本や綾取りの本のようなアートの本
再現性を逆手に取っている?


2025.2.20-2

 日記を書くからものごとが面白くなるのだ──ということを、くどうれいんが『日記の練習』で書いていて、僕が毎日書くのもそれが動機かもしれない。しかしメモを読み返すとそのあとすぐに、「それは順序が逆なのではないか?」とツッコミを入れている。どういうことだろう?
 書きたいことがあるから書くということか。あまりにもそれは素朴というか、書く者を主体とした考えのように思う。しかし実際は書くということ(あるいは書かれる内容)が先行するのだという思いがいま僕には強い。
 だから僕が毎日書くのは日々を面白くするためでも、書きたいことがあるからでもなく、僕に〈何か〉を書かせたい”何か”があり、この最初の〈何か〉とあとの”何か”はおうおうにして同じものなのかもしれない。僕はとにかくそのあいだにあるだけで、いわば糸電話の糸にすぎない。
 そのことでしかし虚しさを感じたり、自暴自棄になったりすることはなく、むしろ豊かだからついこの豊かさのために書くのだ──と考えたくなるしそれでも構わない。とにかく書くという運動が発生する。その得体のしれない契機がある。そのことがすごい。

【メモ 2025.2.9】

書くことで日々の実感を手に入れたいというような気持ちがあるのかも
それはでも実際は順序が逆なのではないかとも思う
でも言語化したものが実感に先立つという議論もあるわけだし
本当のことはよくわからないし考えてみたいかも


2025.2.20-3

 大学生のときいろいろな価値観に板挟みにされてにっちもさっちもいかなくなっていた僕は心理学を学びはじめるのだけれど、それはいま考えると5つほど年上のKの影響だった。Kのことを僕はのちに大嫌いになるのだけれど、当時は憧れのお兄さんだった。だから自分を助けるため、というのはあとづけの動機だったかもしれないが、しかし結果としてそうなった。
 自分なりに動機を言語化すべきだ──と十代の僕は考えたのではなかったか。そうして、人の心とはどのような状況でも向き合わなければいけないから、という考えに至った。無人島に流れ着いたときさえ、自分の心とは向き合うからと。
 それからも心理学への興味は弱まったりまた強くなったりして、いまはあまりそこではないかなと思っているけれど、学んできたことではなく自分なりに考えてきたことが自分を救っているという感覚はある。そのための回路はたぶん心理学でなくてもよくて、というかその元をたどれば僕は小説家になりたいと高校生のときに考えたのが僕をつくった。

【メモ 2025.2.10】

坂口恭平のポスト
自分を助ける方法こそ喫緊の問題
方法は1日5分でもいいから自分を見ること
心理学を学んだときの動機とつながる:僕は自分を助けてきた


2025.2.20-4

 小説を書く前にどれくらい構成や、書くことを決めるかというのは、僕のなかでは行きつ戻りつしていていまだに決着がついていない問題だ。構成を決めるにせよ、散文の自律的な運動に身を委ねるのなら、結局は「どちらでもいい」ということになるという考えは一般論のところにとどまっている。
 実際に小説をいくつか書いていくなかでは、しかし自分なりにどうするのが書きやすいのかを考えていかないとなかなか書くことを続けるのは難しい。僕はいまその小説をまったく書いていないという地点と、いくつもの小説の書き方を試しているという地点のあいだにいて、しかし僕を宙吊りにしているのはそのふたつの地点ではない。
 いや、見ようによってはそれこそがいまの僕の状況をつくっているのか? つまり僕はそれを50メートル走のスタートとゴールみたいに一直線に結んでいるけれど、分岐はほかにいくつもあるはずだ。しかし確かなことは、その分岐は走りながらではないと気付けないということで、だから結論はもうとっくに出ている。方法論を試すために書く、というくらいでもいいのだ。

【メモ 2025.2.10】

あほだすなどから要素を抽出して小説の仮構成にする
ただし書くとき構成には引っ張られない
あくまで初稿とかゼロ稿のイメージ


2025.2.20-5

 似たようなことは、ポストより前に『自分の薬をつくる』でも書かれていたように思う。では、具体的にどうすればやりたいことがそのまま本になるだろうか? それは坂口氏のやり方を想像するのではなく、僕が新たに創造しなければならない。プロセスはすべてそうで、というかだから本になる。
 やはり書きながら考えるということ、考えるために書くということがひとつの指針になるのではないか。たとえば僕はいま書きながら考えている──これは本になるか? なるかもしれない。〈まえがき〉として、このまま本をはじめてしまうこともできる。これは僕が自分の人生を本にするための方法論について、自分なりの考えをまとめた本です。
 それで次に、読者にその大まかな概要を語らなければならない。これも難しくはない。僕はそれをこうやって書きながら考えて、そのまま本にすることに決めました。あなたが読むのはその軌跡です。どこにたどり着くかはいまの僕にもわかりません。でも、どこかにたどり着くはずという予感、というか確信めいたものはあります。僕にはもう、そういう未来(?)からのささやかな声が聞こえているからです。きっとその声がこれから僕を導いてくれます。だから最初から結論めいたものを書いておくと、考えながら書くためには、自分の考えではなく聞こえてくるささやかな声に耳を澄ますこと──ということになります。なんかわくわくしてきました。いまからさっそく、実際にはじめてみましょう。

【メモ 2025.2.10】

坂口恭平のポスト
病院をつくる奮闘記という構想
やりたいことの企画やリサーチを本にする
だから具体的になる
なるほど! 人生を本にする


2025.2.20-6

 説明しすぎると何が悪いかというと、まず文量が増えるしなによりうっとうしくて、このうっとうしさというのはまず自分にとってうっとうしい。自分にとってうっとうしいということが、そのまま相手にとってうっとうしいとは限らないが、しかし何かそこは大事な気がしている。つまり文章を情報伝達のための道具にしてしまうというか、情報伝達の道具という型にはめて、驚きをなくしてしまう。その驚きのなさは相手にも伝わる。
 と、すでにこの文章のなかに答えがあって、だからそもそも伝えようとするという構えに問題がある。そうではなく、振動させるというか、つまり相手の(また自分の)心にめがける。そこに何を立ち上げるかを意識して書き始めるし、何が立ち上がるかをつねにリアルタイムで考えながら書く。
 同時に僕の場合とくに最近問題なのが、あまりにも説明を端折りすぎてしまうということで、説明というか水路を引くことを怠ってしまう。だからさっきの「心」ということであれば、両者の心を振動させるのでもあるし、その二つの心を線で結ぶのでもある。つまり糸電話の糸みたいなものを書くというイメージかもしれない。
 だからといってその糸をわざわざY字(T字か?)にする必要はなくて、なぜなら糸を震わせるものは心とは異なる次元にある何かだ。

【メモ 2025.2.11】

伝えたいという気持ちがあると説明しすぎてしまう
運動を立ち上げることだけを純粋に意識したい
あほだすでは「現実」がそのための踏み台になる




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