日本では「リベラル」が正しく理解されないまま、なんとなく使われている。
2月27日の朝日新聞デジタルに、「リベラルの逆は保守ではなくパターナル 中島岳志さんが問う「自由」」という記事が出ています。
「日本政治の世界で「保守」に対抗する政治的な立場として期待もされてきた「リベラル」。けれど、そこで言うリベラルの中身は、意外とまだ共有されていないのではない」との書き出しの記事ですが、現在の日本では、共有以前に、「リベラル」が正しく理解されていません。
政治学者の中島岳志さんが言うように、「リベラルと対立する概念は保守ではな」く、日本の政治の文脈で、リベラルと保守が対立しているかのように語られているのは、本来間違っています。
これは、中島岳志さんが説明するように、日本政治の「保守対革新」という対立構図の中で、『革新』を名乗っていた左派勢力が、冷戦構造が崩壊したことでその呼び名を使えなくなり、リベラルを使うようになったわけです。
本来「リベラル」は自由主義であり、アメリカ政治におけるリベラルの用法は、1930年代以降の歴史の中で広がったもので、社会的公正や多様性を重視する自由主義という特殊な使い方で、アメリカ政治の保守も日本で言う保守とはやや違います。
ですから、日本の「保守対革新」の政治対立で、革新を使わなければ、権威主義と訳される「パターナル」が正しいという中島岳志さんの指摘は適切でしょう。
そのような「リベラル」概念を前提にして、同日付け朝日新聞デジタルの「新しい福祉、新しいリベラル 調査で見えた「人への投資」の可能性」は、興味深い記事です。
「すべての個人の成長を支援する「社会的投資」型の福祉国家」を望む人が2割以上いる可能性があるという社会調査の結果の話です。「社会的投資型の福祉国家」とは、欧州で1990年代に提案された「社会的投資国家」構想がベースとなったもので、社会福祉サービスを『弱者への支援』ではなく『人への投資』と捉えるところに特徴があるのですが、現在の日本にはこの方向を目指している政党はなく、新しいリベラルとなりうるものだとされています。
欧州の場合、仕事に就くための要件はスキルや技術が基本となっているため、職業訓練が投資の対象になりました。また、技術発展のスピードが速くなる中で、人々に求められるスキルの質も変化しました。良質な雇用へのアクセスを確保するためには、変化に対応できたり、学び直せたりするスキルが求められます。欧州では、未就学児への教育がこうしたスキルを身に付けるために重要な要素となると考えられたため、保育園行政などに予算が積極的に振り向けられました。未就学児への教育は貧困問題の解消にもつながります。例えばイギリスでは、困窮地域にシングルマザーが多く、家庭資源の少なさから子どもの社会性が育たないということが問題視されました。未就学児の段階で対人関係を学ぶことは将来の学習習得能力に影響しますので、この段階での教育が長期的な視点での貧困対策になるということで、積極的に税金が投入されました。
日本は、公的支出に占める教育支出の割合がOECD加盟国で最下位です。年金など高齢者に対する社会保険支出に比べて、人生前半の教育や育児支援などにかける公的支出の割合は著しく低くなっています。また、日本では「M字カーブ」が問題視されてきたように、女性のキャリア形成を支援せず、低賃金・低スキルの状態のまま放置しておいたことが社会の持続可能性を失わせました。このように日本では社会への投資が十分に行われてきたとは言えません。
日本において、社会への投資がこれまで進まなかったのは、社会を変えるつもりがなかったからかもしれません。投資とは未来を見据える行動です。未来に対するビジョンがなければ、投資はできません。その意味で、現状維持の考え方が強ければ、社会への投資が進まないのも理解できます。
しかし、猛烈なスピードで進む少子高齢化という現実を踏まえれば、問題を先送りにするわけにはいきません。また、デジタル技術の発達により、ギグ・エコノミーの到来など、仕事の世界にも大きな変化が訪れています。新しいリスクを分析し、取り残される人が出ないような仕組みを考えなくてはなりません。そのような中で、今回の「社会的投資型福祉国家」への志向というのは、今後非常に大切なものになっていくものと思われます。