去って生まれて


それまであっけらかんと流れていた時間をグッと掴めるかのように、時が止まった事を覚えている。芸能人や政治家の不祥事や流行病の世情と共に並ぶ訃報、急逝の文字。今年は沢山の人が世を去っていく。有名、無名関係なく人が生きる選択肢を捨てていく。それこそ世情により、人と人との距離が離れる事やストレスやネガティブを解放する手段を強制的に奪われている事も関係しているかもしれない。支えを失った人は弱い。僕もあなたもそりゃ脆い。

「何で死を選ぶんだ!、死んではいけない!」「生きていると、きっと必ず良いことが待ってる!」ある人はこう言う。勿論生きている身としてそれを声高らかに叫ぶのが健康的なのかもしれない。ただそのセリフに希望を見出せるほど、この世はカラフルに出来ていないと誰しもが目覚めてしまってきている。先で待ってる良いことより、辛い今に誰しも耐えきれない。生より死の方が何と確実で信用の置けることだろう。

彼女や彼らが世を去った時、違和感を感じつつ、どうしても才能を悼む事から始めてしまう。世を去る時、特別な何かが無いと誰も覚えてくれないのではないかとふと頭をよぎる。世に生まれてきた時点でみな尊いものとしてくれない現実の冷たさ。今の私の積んできた努力、生み出した結果では誰が惜しんでくれるのだろう。私がいない世界を私は知ることはできない。今日も日常が通り過ぎていく。仕事してる間、食事してる間は頭によぎる余地を許さなかった悲しみがふとした時に襲ってくる。今日も生きてしまっている。沢山の人に惜しまれるような人が亡くなっているのに、今日も私は朝に目覚める。

私の生を動かしているものは世にあるエンターテインメントだ。音楽、舞台、テレビ、ラジオ、ドラマ。死ななければ楽しみが待ってるかもしれない。いや、こちらから楽しみを見つけているのだろう。そうでもしなければ疲れ切った人々の顔や薄暗い日常の風景が私を蝕んでいく。書き物をしている身として、自らの楽しみを伝えていきたい。「自分はこうして生きているぞ!」、誰しもが死を一歩手前に置いている状態の世に私は伝えていきたい。悲しみが迫っているなら、もう最後にめちゃくちゃ楽しんでやればいい。そうすればその悲しみに向かう勇気が生まれるか、もしくは悲しみをまだ前向きに受け止めることができるかもしれない。死を選ぶ人を非難はしない。ただその選ぶ瞬間でさえ笑顔であってほしい。泣きながら生まれて笑いながら死んでいきたい。やってられない日にも、好きな人に連絡できる、好きな音楽が聴ける、好きな映像を見れる、好きな言葉が読める。ありふれた幸せが幸せと思えないこの世はなんと贅沢な事だろう。価値などハナから無い、ただそれに価値を付けていくのは我々だ。

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