In my life ジョンの思い出
今回は小説家であり、noteライターでもある
H・S様のリクエストにお応えします。
ジョンは1940年にリバプールに生まれた。船乗りだった父は不在がち、自由奔放な母は落ち着いた生活に縁がない。そんな環境を危惧した叔母ミミと叔父ジョージが瀟洒な住宅街にあるふたりの家、通称「メンディップス」にジョンを引き取ったのは彼が5歳の時だった。
厳しくも愛情深い叔母と優しい叔父の下での暮らしをジョンは「笑いが絶えない幸せな子供時代だった」と回想している。
後にジョンはヨーコとリバプールを訪れると、既に他人の家となった「メンディップス」の前を車で通り過ぎながら「ヨーコ、この家だよ!」と嬉しそうに指差して。幼かった日々を思い起こしては、何度もヨーコに話して聞かせたという。
ジョンにとって故郷リバプールは掛け替えのない場所だったのだろう。
「イン・マイ・ライフ」では以下の通り歌っている。
忘れられない思い出の場所がある
友達や恋人と過ごした思い出も
それぞれの場所と共に蘇ってくる
今は亡き人 今も元気な人
これまでの人生で どれもかけがえのない宝物
この曲は前妻シンシア一番のお気に入りの曲だったらしい。ジョンと仲の良かった頃を思い出すのだろう。
また、ジョンはこの曲について「意識して自分の体験をつづった最初の曲」だと述べ、自身にとって大切な曲であると位置づけている。
プロデューサーのジョージ・マーチンが間奏で弾くバロック調のピアノが印象的。
マーチンは最初、ハモンドオルガンで弾いてみたけど上手くいかなかった。次にピアノで演奏したがテンポが合わない。窮余の策、ハーフスピード(半分のスピード)で録音し、倍速で再生した。結果、再生したピアノのサウンドは、チェンバロ(ハープシコード)を思わせるものとなり、素晴らしい間奏となった。
ハーフスピードでの間奏 👇
倍速再生した間奏、キラキラして素晴らしい 👇
この曲はポールのインタビューで構成した『メニー・イヤーズ・フロム・ナウ』が出版されるまでは全てジョンが書いたとされていた。
ところが、その本の中でポールはジョンが書いたのは詩と最初の部分だけ。メロディの多くはジョンのメロトロンを使って30分ほどで自分が書いたと発言。
つまり作詞はジョンだが、作曲の殆どはポールという事になる。
ジョン不在の今、真相は明らかではないが、名曲である事に違いはない。
大阪で「ポール・マッカートニー写真展」を観た。
人気の上昇と共に過熱するファンとマスコミの熱狂。
後にジョンは「ストレスで平静を保つのが困難だった」と語っている。
そんな中、リバプールでの楽しい思い出を曲にしたのかな。
【あとがき】
「ポール・マッカートニー写真展」について、
「ゆめ参加NA」様のnote記事を紹介します。
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