つながり
今の仕事が平日休みなこともあり、よく平日の夕方に散歩に行く。
何年も見慣れた景色ではあるが、昔、よく遊んでいた公園や駄菓子屋の前を通っても誰もいない景色をみて寂しさと少子化の深刻さを実感する。
少しだけ思うのが、今の小学生は外に友達と遊ぶ時の感覚は自分が子供の時に味わっていた高揚感と同じなのだろうか。
子供の頃は学校でも放課後も休日ですら当たり前のように友達と遊び、喧嘩していた。
これを自分は血の通った「つながり」というもので表現したい。
子どもの頃がこの血の通った「つながり」が当たり前のことだったが、社会人になると、この血の通った「つながり」を生み出すことの難しさを感じる。
今はSNSという繋がりを作るものがあるが、その繋がりは本当に薄く、無機質なものだ。
フォロワーやいいねの数の評価で決まってしまったり、少しでも過ちを犯すと多くの薄いつながりの人間が叩いてくる。
ただ、そんな薄いつながりを多くの人は求めたり、頼るのだ。今の社会では普通に生活をしていてその薄い繋がりを作ることすら難しいからだ。
SNSを始めてからもう少しで5年が経つ。大学生の時から始めて、今では1200人ほどのフォロワーができた。
だけど、昔からalways 3丁目の夕日やコクリコ坂のような血の通った関係性をもつ「つながり」を大事にしていた自分としてはSNSを薄い繋がりだけで終わらせたくなかった。
だから、オフ会やzoom飲み会、スペースをやった。これををおこなったことで血の通った関係性を形成できたが、時にはその代償を受け、傷つけたり、傷つくこともあった。
でも、毎日機械のように仕事してる生活の社会人としてはその代償すらも生きている実感に感じていた。
SNSを通じてスペースやオフ会に参加し、中学生から主婦の人まで多様な人と話したが、それぞれの理由や環境は違えど、血の通った関係性を求めている人は多かった。
顔もわからないし、年齢も違うけど、どこか固いつながりがあった。
この血の通ったつながりはTwitterの1200人や10万人のフォロワー以上の価値があると思っている。
子どもの頃に戻ることはできないけど、今でも人の暖かさを感じられるつながりがあるのは本当に幸せなことで、これが少しでも長く続くように行動したり、努力しなければならないと思う。
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