不足しているのは、"理解できないこと"への理解ではないか
外部との良質な関係性を、如何にして創出するか
この世の全ての問題は
他者(外部)との関係性によって生じる
と言っても過言じゃない のではないだろうか。
中でも、人間同士の関係性による問題が
ほとんどを占めている気がしてならない。
パートナー、家族、同僚、友人、隣人。
そして、人間関係とは
"言語"と"非言語(色んなものを包含してしまっているけど)"
を通した情報の交換で構成され、
特に、"言語"が強い影響を及ぼしていると感じる。
今回は、"言語"を使ったコミュニケーションについて、
暫定的な自身の見解の表現を試みる。
"便利な言葉"が本質的な理解を遠ざける
世の中は、便利な言葉で溢れている。
というか、便利で耳障りのいい言葉が大衆化される。
本質はどこかに放って置かれて。
もう、そこかしこで擦られまくってるけど
"多様性"とか"コミュニケーション能力"とかがいい例かな
本質的な意味を超えて、
範疇を超えて、
解き放たれた"言葉たち"は、空虚をつくりだす。
例えば、
みなさんは、"つくえ"と言われて何を想像するだろうか
質感や大きさ、色、脚の長さは異なれど
おそらく多くの人が
"4本の脚で支える構造の台っぽいもの"
をイメージするのではないか。
脚の数も、人によっては異なると思うけどね
けど、きっとその程度。
概ね(ってか99.9%)、"つくえ"だけで通じるし、
いちいち会話の流れを遮ってまで
「それって何本脚?何色?誰がつくったの?」
のように詳細の定義にまでは言及しないだろう(すべきでないだろう)。
言及せずとも、会話が滞ることがないし、そもそも一般的に"つくえ"は文脈における重要な起用はほとんどない。
では、"コミュ力"を説明してと言われて、
自分1人で、くまなく、そこそこ明快に説明できるだろうか。
できたとしよう。
隣の人とどれだけ一致しているだろうか。
まぁ、おそらく一致しているところは探せるはずだ。
だけど、一致していないところはどれだけあるだろう。
私は、ここがポイントだと捉える。
"コミュ力"という言葉を、会話の中でふと扱うときに
相手方と、どれだけ定義が一致していないかに想像を及ばせるという試みは
きっと、そう多くはないはず。
理解が1つのゴールである"コミュニケーション"において
一致への共通認識の不足よりも、
不一致への共通認識の不在が、"理解の錯覚(≒誤解)"を生み出しているように感じる。
このように
本来、抽象性が高いもののはずなのに、
それらが忘れさられ、一般で多用される言葉たちには気をつけなければいけない
と、私は思う。
敢えて、強い表現をするなら
自ら定義できない言葉は、安易に使わない方がいい。
理由は、主に2つある。
1つは、当然だが
他者とのコミュニケーションにおいて、エラーが発生するから。
そして、そういったエラーは、認識するにも技術が必要だし、
エラーを相手方に正しく伝えるにも技術を要する。
また、エラーであることがちゃんと伝わるには、相手方にも技術が必要だ。
(エラーの認識についてはまた別の機会に)
もう1つは、前述要因にも大きく影響するのだけど
"ひとりごと"の質が落ちるから。
"考える"という行為は、
基本的には言語を使用する。
出自によって、第一言語(私でいう日本語)が決まり、
おそらく多くの人が、第一言語を使って
内面的に対話を行う。
(なんで彼は怒っているんだろう。私のあの言動が気に障ったのかもしれない。あるいは、、)
(今日はやけに気分がいいなぁ。質の高い睡眠が影響してるのかな。入眠時にクラシック音楽を流したのが良かったのかな。)
みたいな
こういった内なる声は、今この瞬間も
きっと、誰もが携えているはずだ。
それを、私は"ひとりごと"と呼ぶ。
声に出すか、否かは関係ない。
一般的には、思考といってもいいかもしれない。
つまり、
乱暴な論理でまとめると
・一般で多用された抽象的な言葉を、自ら定義せずに日常使いしていると、"ひとりごと"の質が下がる。結果、論理に飛躍があったり、論理の破綻が起こる等の影響がある。
・"ひとりごと"で使用する言葉は、他者とのコミュニケーション時にも使用される。つまり、多用される抽象的な表現は、各々で解釈に差異があるので、誤解が生じやすい。
これらを踏まえ、私は
・普段から可能な限り、納得感の高い表現の選択に努めること
・他者とのコミュニケーションにおいて、抽象的で重要そうな"言葉"と対峙した際は、相手方の定義の確認をすること(不一致の発見)
を現在進行形で訓練しております、、( ´ ▽ ` )
ただ、これらは
あくまでコミュニケーションにまつわる"技術"の話。
もっと大事なことがある
と、私は思う。
"理解できないこと"に、どう向き合うか、向き合いたいか
それは、向き合う"姿勢"である。
"理解できた/できない"という結果は
あくまで通過点でしかない。
それ自体が
たとえ、1つのゴールであったとしても、目的にはなり得ない。
2人の関係性において、
双方がコミュニケーションのプロフェッショナルだとしても
互いの認識が漏れなく一致することなんてあり得ない。
コミュニケーションとは、
互いの認識の一致度を、"可能な限り"高める手段でしかない。
つまり、
大前提として、違う個体である以上
100%での認識の一致なんて、不可能であるのだ。
現代では
あまりに、この大前提への理解が不足しているように感じる。
だからこそ、
コミュニケーションエラーが起きたときに
勝手にがっかりしたり、傷ついたり、
相手を責めたりするのだ。
コミュニケーションエラーなんて、
自然、当然、そのものだと思う。
より一致度を高めるきっかけでしかない。
こんなところで一喜一憂してる場合じゃないのだ。
コミュニケーションにおける話だけではない。
私が尊敬してやまない学者や偉人たちは
この大前提への理解が
この大前提への理解こそが
彼らの研究を、向き合うコトを、前に進めているのだとさえ思う。
彼らは、漏れなく
"分からない"を大前提としている。
分からないものを100%理解してやる!
のような傲慢さはとうに捨て
どこまでいっても、100%分かるなんてことはない
それでも尚、少しでも前に進みたい
という
謙虚で、強欲な相反する感覚が
その姿勢こそが、
現状を少しでも前に進める力なのかもしれない。
100%を目的にしてしまうと
どうしても手法が歪む、濁る。
話をコミュニケーションに戻し、纏めると
・どこまでいっても、誰かを100%理解することなんてできないという前提を理解する
・コミュニケーションとは、可能な限り一致度を高める手法であり、そのために"技術"を磨く必要がある
ということである。
何事も
傲慢さを手放し、謙虚に"コト"に向き合いたい
と強く願う。
※反省
本記事は、纏め始めから数日寝かしてしまったため、前半後半でだいぶ熱量が変わってしまった。
テキトーで乱暴な帰結になってしまったああああ
芸大の試験とか、作品を見て
そういったプロセスが見抜かれるとか聞いたことある。
そこに人間性が宿る、と
絶対不合格でした。お疲れ様でした!