一人じゃ寂しくて生きられない
日常というものは、
どうしてか、自らの意思とは乖離して動いているもののように錯覚することがある。
というか、
多くの人にとって、ほとんどの時間が"それ"にあたるのではないだろうか。
こういった文脈において、
よく"歯車"という言葉が使用されるが、まさにそんな感じ。
理想がなんなのか
まだクリアに思い描くことはできないけれど、
少なくとも、現実の"これ"は 私が求めているものではなさそうな
ってか、違う。
圧倒的に。
目下奮闘中なのが
私自身がまず、この社会の歯車っぽいものの一部であることを自覚し
外れても問題なさそうな部品に可変すべく、若干の修正をかける。
その上で、
あたかも「あ、すんません!外れちゃいました、、!」感を出し
外的要因っぽいものに責任を分散させ、分離を図る。
そんでもって、この社会の歯車っぽいものを
できるだけ俯瞰で捉え、しばらく考える。
このまま分離っぽい状態を続けるか。
はたまた、どんな部品になってこの社会の歯車に参画するのか。
したいか。
そこで思う。
私は、この社会の歯車っぽいものに参画したい。
圧倒的に。
別に、分離したいわけじゃないんだ
分離自体は全く目的でないんだ
考える間もなく
この社会の歯車っぽいものの一部になり、分離することが許されないように錯覚してしまうことが苦しかったんだ
そして、そういった錯覚は
年を重ねるにつれ
制約が増えるにつれ
どんどん強くなってしまう。どうしても。
それでも、私は許されると信じたい。
漏れなく、
誰であっても
いつであっても
どんな状況でも
ちょっとだけ、分離して考える時間を創ることを。
また、自ら主体的に選んだカタチで歯車に参画することを。
そして、それらが何度でもトライしていいことを。
今朝、嬉しかったのが
私自身、分離したいわけじゃないということを認識できたこと。
むしろ、この社会の歯車の一部になりたい。
主体的な自覚を携えて。