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私の自覚を遥かに超越して、きっと、莫大な愛を受け取っていた

傍迷惑な私の性癖

以前、"親"という存在について、
自分なりの暫定的な定義を経て、
父について、あまりに簡単にではあるが、纏めを試みた。

記事の中で、もっと詳細に、"生(なま)"に到達することもできるだろうけど、
それはもう、マスターベーションの領域な気もするので
仮に、関心を持ってくれる人がいるのであれば、ぜひ、個別でお話ししましょう。
私はいつでも準備ができている。

迷惑極まりない話なのだが、
私は、みんなの
"あまり公にできない(すべきでないという理性が働くような)もの"
に非常に興味がある。
きっと、その人らしさが
"そこ"に詰まってる気がするから。

当然、なりふり構わず教えてくれということでは全くない。
もし、周囲に受け入れられないだろうから、共有しない、共有できないのであれば、ということ。

言いたくないことは、言わない方が絶対的に健康だ。

職場にも余計な仕事を増やす人っているよね、そう、それ俺

さて、今回は母について纏めてみようか。

幸いなことに、私には母が現存していて
今でも健康に生きている。

あ、私の扱う"健康"という言葉は
きっと、世の中一般とはまぁまぁ乖離がある。

比較的に無理のなく、その人が存在する社会に受け入れられている状態
っていうのかな
そんな感じ
(伝われっ  ( ∩ ˙-˙ )⊃---☆ビーム!)


母は今、癌を患っている。
数週間後に、手術を控えている状態だ。

細かいことは私にも分からないが、
所謂"ステージ"的には割と早期みたいだ(それくらい知っとけよ)。

大丈夫。あなたのことだから、なんくるない。

優しいみんなはきっと、私へも一定の心配と配慮をくれると思う。
いつも本当に有難う。
みんなのおかげで、私は今日も健康に生きていられる。
これは、心から本当に、そう思う。

ただ、これは可能であれば是非、
今後の周囲の人たちとのコミュニケーションにおける教訓っぽいものとして、
頭の片隅のタンスの裏に、埃と一緒にそっとおいてほしい。

"誤った共感ほど、孤独を感じるものはない。"

(敢えて強い表現をしてしまってるけど、私は基本的にちゃんと純粋な優しさとして受け取っているから安心してね!笑 他の人には気をつけて、ということ)

あ、一点だけ。

以前のnoteでも記載しているけど、私の母は"気にしい"である。
基本的にプライベートな話は、死ぬまで自分だけで抱えていきたい人だ。
母は今の状況を、息子である兄と私以外の周囲の誰にも言っていない。職場に嘘もついている。
だから、お願い。(特に、私が高校までに出会った人たちに、かな)
あなたにしか共有していないんだと認識してほしい。
隣のあいつには共有していない。
愚かな私は、noteのような、ごりパブリックな場でシェアしてはいるんだけど、
私なりに意図を持って、だいぶ閉じたコミュニティ向けの発信として想定しているので、
みんなの一定の想像力と倫理観で温かなご判断をお願いします。

お母さん、私は余計な仕事を増やす、迷惑な息子に育ってしまいました。

最も承認して欲しかった対象、でも、最も承認してくれなかった存在

今回は、先述した情報伝達が目的では全くない。
主題は、母と私の関係性の歴史だ。

私は、母に直接褒められたことがない。
直接感謝されたことも、ほとんどない。てか、多分ない。

逆に、「あんたにはできない」とは何度も言われた。
何度も可能性を否定された。

そんな母の性格的パートに、昔からずーーーーっと違和感を覚えていた。
なんなら嫌悪することすらあった。

自覚の範疇では、
この感覚が、私の価値観形成の礎を担っていると言っても過言ではない。

そのため、ずっと、部分的に抗ってきた。
思春期を経て、
母を「お前」と呼ぶようになったし、
時には「しね」と言ったこともあった。

母が直接、言葉で承認してくれなかったから、
私も直接、言葉で「認めてよ」って言えなかった。

だから屈折した抗い方をしてしまった。
本当にごめんなさい。

23年12月、パラダイムシフトが起きた、起こした

ここ7,8年くらいで
私なりに、
想像を超えた色んな経験をし、
自他含めた感覚の機微を敏感に察知し、
整理し、
ひたすら繰り返し。

やっと、時が来た。
そんな気がした。

12月8日、私は母に1通のLINEを入れた。

これ、やばいなーーー

その夜
感じていたこと、思っていたことを
"直接"、言葉を使って、初めて共有した。

恥ずかしながら、初めて母の目の前で、号泣した。
25歳にもなって。

時間にすると、たった15分程度だったと思うけど、共有する前と後で、何かが違うことは明かだった。

パキッ、パキパキ
関係性が変わる音がした。

たったそれだけのことに、
私はどれだけ時間をかけてしまったんだろう。
全てを脱ぎ捨て、たった一言伝えるだけでよかったんだ。

でも、脱ぎ捨てるって、こんなにもエネルギーを消費するんだな。

なぜ、大きく道外れなかったか

いや、外れていたのかもしれない。

ただ、目も当てられないような破壊性、破滅性はなかったと思う。
そこそこ育った。
育ててもらった。

先述した通り、
私は、母から直接認めてもらった経験(自覚)がない。そして、ほとんどを否定されて育ってきた。
ここだけを切り取ると、「よく道外れなかったなぁ」なんて思う人もいるかもしれない。
でも、私からすると、外れなかったのは必然だった。
外れる訳がなかった。

6歳:兄と兄の友人と、イタズラで公園に落ちていたライターで紙に火をつけ、大火事を起こした。消防車3~4台でなんとかしてもらった。不幸中の幸い、人様への影響はなかった。
(その夜、トノサマバッタが夢に現れたのは、一生忘れない。本当にごめんなさい。)

7歳:学校の中庭に窓ガラスがあった。石を投げた。割れた。そこにいた友人に内緒にするように伝えた。その友人は毎日学校に提出する日記に"内緒にする約束をした"ことも含め丁寧に、くまなく記述してくれた。バレた。伝えるって難しいんだな。

8歳:前日の体育の授業中に、体育館にある一室の端っこ窓の鍵だけ開けておき、明朝6時に友人と侵入し、探検。色んな部屋の鍵の在処もしっかり下調べ済みだったから、屋根裏など、私はみんなが見たことない景色を見た経験がある。えへへ

9歳:マンションの屋上からパチンコを使って、道を通りすぎる車に向かって小石をぶ -自主規制
, etc.

ごめん、やっぱり人道外れていたかもしれない。

伝えたかったのは、犯した過ちたちじゃない。
(むしろ伝えたくなかった!Sh*t!)

今あげたものは、あくまで氷山の一角だ。
こんな感じで、私は周囲に迷惑をかけにかけまくっていた。

ただ、どんなときも、
母は私のために全力で頭を下げてくれた。
方々に頭を下げて回った。
(もちろん、私も腫れ上がった顔面で謝りに回ったよ)


きっと、その背中の数々を見て、
私なりに、感じて、育ってきたんだと、今では思う。

その感覚が、経験が
今の自分を、なんとか前に進めるんだ、と。

そんな母だから、周囲の人からは
頑なで、素直さなんて全くないけど、
誠実で、礼儀正しく、義理堅い、真面目な人
という印象を持たれていると思う。

とはいえ、純粋な想いは伝え合える世の中でありたい

纏めると、
私は、母から直接認めてもらえないことに強くモヤモヤし続けてきた。
そして、その感覚は
間違いなく、今の私の根幹を成している。

ただ、

私は、本当に有難いことに
愛は、めちゃくちゃ受け取っていたんだ。
当時はそんなこと自覚できる訳がなかったけど。

言葉などの、直接的な表現による
"察知しやすい"承認がなかっただけで、
無意識に、無自覚に、大量に、受け取っていたんだ

それから
父の死を含めた、様々な経験から自身を研磨し、
やっと半年前に、母と"出会う"ことができた。

本当に長かった。
しんどかった。

それぞれの季節を乗り越え、
やっと今、運良く重なることができた。

せっかく出会ったんだ。
もうちょっと長生きしてもらわないと困る。



そんな経験をしたからこそ、私は
想っていること、特にそれが誰かにプラスの影響をもたらすことであれば
恥じらいなんかを軽く超越して
伝えたい、伝えにいきたいって思うんだ。

人はなかなか変わらない

2024年 5月12日。母の日。

当日は予定があって、帰れなかったけど、
13日、最寄駅でカーネーションを買って、実家に帰った。

何かから解放された私は
真正面から「いつもありがとう」と伝え、母に花を手渡した。(我ながらすごくね?)

すると、母はこう言った。

「昨日じゃなくて良かったね、昨日だったら多分お花もっと高かっただろうから。」






SH*T!!!!!!!!!

まぁ、今回は許してやるか

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