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genre:Grayのオルタナティヴ|「邪夢愚麗(ジャングレ)ジングル」

12月20日、「genre:Gray」を「遣い手の流儀」とする三人の表現者たち──塚田次実、森仁美、横山てんこ──のパフォーマンスを観てきた。終演後に個々の作品について思うところを四人(ときどき五人)でワイワイ話し合ってきたので、ここではあらためて全体的な感想だけ記録しておこうと思う。(→結局最後に思ったことも書きました……)

まず、「genre:Gray 利己的物体と奉仕的肉体によるグロテスク」は、劇団でも集団の呼称でもない。あくまで黒谷都の流儀(遣り方)を指している。オフィシャルな説明はこうだ:

ここに集う者たちは、黒谷都(人形遣い/モノ語り作劇・演出家)が提案した「genre:Gray 利己的物体と奉仕的肉体によるグロテスク」を基流に、「遣い手と人形/モノ、それぞれの身体」が共に且つ多様に存在する視覚的表象行為を探りながら、それぞれ独自に活動しています。

近年は必要に応じて集団名に近い使い方もしていますが、もともと「genre:Gray 利己的物体と奉仕的肉体によるグロテスク」は、集団名(劇団名)ではなく、黒谷都による「遣い手」の流儀を表す言葉です。

この場は「モノ語りが産まれる処」として開かれ、genre:Grayの遣り方を元に「遣い手と人形/モノ、それぞれの身体」の独自性を探る者たちが、稽古=基礎の鍛錬、実験と研鑽の繰り返し=に取り組む学び舎であり、機が熟せば発表の場ともなります。

https://genre-gray.com/about/

そうはいっても、genre:Grayに「黒谷流人形演劇一門」というイメージをもつ人は多いのではないだろうか。しかし今回の上演作には、良い意味で「黒谷らしさ」はそれほどなく、それでいてそれぞれのパフォーマンスをとおして通奏低音的に「genre:Grayらしさ」が感じられた。三人とも、黒谷都の伝導者を目指しているのではなく、あくまでこの流儀(遣り方)をとおして、自分自身の表現を目指していることが見てとれた。では「genre:Grayらしさ」とは何なのだろうか。

genre:Grayの流儀のうち、最も重要であることの一つが「生き還す」というものだろう。これはスピリチュアルな降霊術のイメージではないし、ましてや死体に腕を突っ込んで蘇生するようなものでは決してない。そのモノの「ナラティヴ」──すべての存在と結んできた関係性にまつわる記憶としての生命の痕跡、のようなもの──を見出し、遣い手が身体を捧げて奉仕することで、その「モノ語り」を語り起こすということだ(……と僕は理解している)。

ふつう、人形劇の舞台でモノが生き生きと動き出すことなど「お約束」にすぎない。しかし当たり前のことを立ち戻って考えてみれば、モノはそれ単体では決して(行為はできても)演技はできない存在である。だからこそ、遣い手との交渉を通じてモノが生き生きとする瞬間は、本来、まさに「奇跡」であるはずだ。この「生き還す奇跡」を視覚的に立ち上がらせることが、genre:Grayのパフォーマンスの根幹をなしている(モノ側の視点に立てば「生に還る奇跡」といえるかもしれない)。

「奇跡」を観客に信じてもらうためには、そのプロセスを丹念に、緻密に、徹底して描く必要がある。それゆえgenre:Grayのパフォーマンスには、ときとして半ば儀礼的なシークエンスがあり、人によってはそれが冗長さや、非演劇的性質に映る。観客目線から勝手なことを言うと、この一連の「生き還す」手続きが、「奇跡」の瞬間を迎えるために必要不可欠な流れとして、丸ごと信じられるような状況が生まれたときに、genre:Gray作品は絶大な感動をもたらす。本当に難しいパフォーマンスだ。

ただ、すべてのgenre:Gray作品が、ここまで感傷的な雰囲気をもつわけではない。それは今回上演された三つの作品からも明らかだった。重要なことは、モノの「ナラティヴ」と遣い手との関係性を視覚化することにある。それがどれだけ信じられる強度を保っているかが、観客の評価を左右する。説明的になりすぎることなく、独り善がりのまじないに堕ちることなく、パフォーマンスを実現しなければならない。

今回上演された三人のパフォーマンスは、どれもただ黒谷をなぞっただけのものではなく、それぞれがgenre:Grayという流儀のオルタナティヴだった。「見場」が違うからオルタナティヴだと言っているわけではない。そんな表層をすくうような話ではなくて、ある流儀や方法論を根底に置きつつ、すでにあるものとは「別の」パフォーマンスをすること。それがオルタナティヴだ。おそらく今はgenre:Grayを離れて活動している人々もまた、流儀を内面化して(あるいは乗り越えて)、それぞれがオルタナティヴを演じ続けているのだろう。

以前に(たしか)ロジーナ茶房で話していたとき、黒谷は「自分の使命は土壌を耕すこと」だと語った。彼女の "cultivate" ──「耕す」、ほかに「育てる」「修める」「陶冶する」といった意味をもつ──は決して無駄ではなかったし、genre:Grayに集った人々もまた、それぞれの土壌を各々の遣り方で "cultivate" し続けている。少なくとも僕にとっては、この日たしかに、そう信じられる状況が立ち上がっているようにみえた。


本当はこれで記事は終わりのつもりだったんですが、「こいつ他所の作品には厳しいくせに仲間内には甘すぎやしないか?」と思われるのも嫌だなと思ったので、20日終演後に話していた(個人的に)気になったポイントも書いておきます。

① 森作品について

  • モノと共に舞台にあがる遣い手として、「顔」がまったくうるさくないこと、モノを立てる透明性があることは大きな強み

  • 冒頭のBGM無しでぐるぐる回る場面が、視覚的には何も起きていないので、長いように感じられた

  • 消えた灯と指の関係性が、もっとはっきり伝われば、観客に鮮烈な印象を残せたのではないか

② 横山作品について

  • プロトタイプから大きく変わっていて、より全体の主題性が見えるようになった

  • 母と子の葛藤よりも、日常生活(母としての時間)と舞台生活(表現者としての時間)の葛藤に主題があるのなら、今遣っているマスクは子どもに見えすぎるのではないか

③ 塚田作品について

  • 俳優としての身体が確立されており、操演の技術も相まって、強い印象を与える見せ場が複数あった

  • 丸めた紙が顔から手に移動するシークエンスの必然性が感じられると、一本筋が通ってよかったのではないか

  • 全体の物語性をふまえると、賽の河原のイメージは残してもよかったのではないか

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