「ちょうどいい」について
この前、友人を訪ねて東京へ。
修士課程の二年間を共に駆け抜けた戦友とも呼べる友人。お子が誕生したとの知らせを受けたのが九月で、会いに行きたいとメラメラしていたが、やっと、やっと会いに行けた。
東京駅に着き、八重洲北口で合流しよう、と言われるも、降り立ったのは南口。とりあえずそこに居て、と言われ待っていると、超ハイテンションな友人が登場。会うなり、産後の抜け毛が酷い件、搾乳がつらい件など、近況トークが止まらない。あぁ、なんか懐かしいなこの感じ、と相槌を打ちながら、隣でちょっと照れていた。
合流して向かうは、代々木上原。そして列に並んだ、念願の按田餃子!東京に行く機会があれば絶対に行きたい、と焦がれていたお店。
按田餃子を知ったきっかけは、フードエッセイストの平野紗季子さんによるポッドキャスト「味な副音声」。これに按田餃子の店主・按田優子さんがゲストで来られていた。
いちばんグッときたのは、按田さんが、按田餃子を「公園」のような誰でも来ることの出来る公共空間にしたい、と言った後のこの下り。
聞いた瞬間、何それ、と思わず吹き出したが、この後のお話でとても納得した。
この下りが好きすぎて、ポッドキャストを何度も巻き戻して聴いていたので、代々木上原の駅から坂道を下り、お店を見た瞬間、想像していた通りのお店の佇まいに感動した。なるほど、と痺れた。
そして小一時間並び、とうとう入店。水餃子定食を頼み、しばし待つ。そして現れた、ほかほかしたおぼこい水餃子たち、謎めいた海藻の汁、そして何だかキッチュな見た目をしたライス。あぁ、素晴らしい、いただきます。パッチン。
水餃子を食べて「ちょうどいい」と心の中で叫んでしまった。もちろん美味しい。最高に美味しい。でも、うまい、と身体が震える感じではない。何これ、と目を見開いて歓喜する感じでもない。眉間に皺を寄せて、ゆっくりと雑巾を絞るみたいにあふれ出る、「ちょうどいい」。
そしてもぐもぐしながら頭の中で復唱した、按田餃子のキャッチコピー。「助けたい包みたい按田餃子でございます」。わたしを助けてくれるのは、包んでくれるのは、きっとわたしにとって「ちょうどいい」ものなんだ、と悟った。
後日、毎週楽しみにしているOVER THE SUNを聴いていると、なんとタイムリーにも「ちょうどいい」に関する話題が!タイトルも「ちょうどいい、がちょうどよくて。」と、ドンピシャで吃驚。
ここからスー美香さんが最近「ちょうどいい」と言い合ったのは何だったっけ、中華行ったときだよ、そうそう、という話に。中華や蕎麦のような、言わばどこにでもお店があって、いつでも食べられるようなピンキリなジャンルは、その時々で「ちょうどいい」が変わる、つまり凸凹している、と。
これは、とてもわかる。わたしはコーヒーに感じる。こだわり全開のお洒落なお店で買うコーヒーに癒される日もあれば、コンビニでポイと紙コップを渡され、ボタン一つ押せば出てくるコーヒーに活力をもらえる日もある。あとは、パンにも感じる。ひとつ300円超えるようなパンに喜ぶ日もあれば、コンビニの手頃なパンにめっちゃ満たされる日もある。ドーナツもそうかも。専門店や、有名店で買うドーナツに踊る日もあれば、ドラッグストアとかで叩き売られている謎のぺちゃっとしたドーナツに悶絶する日もある。
「ちょうどいい」というと、そこには少しネガティブな意味も入っている。自分自身を低く見積もっているような感じもある。しかし堀井さんの「自分のキャパに対して、ほどよくおさまる感じ」という「ちょうどいい」に対する理解が、自分の中に、すとん、と来た。
さて、今年2023年はいよいよ30代に突入するのだが、人生これからやで、とみなぎっている反面、頑張りすぎないようにしたいな、とも思っていた。そんなところに、この「ちょうどいい」という概念が自分の中に落とし込まれたのは、とても良かったと思っている。ガンガン突き進む野心を育てながら、自分がちょうどよくおさまることのできるものも探しながら生きていきたい。
ありがとう、按田餃子。ありがとう、OVER THE SUN。
助けられ、包まれ、今週も金曜日までたどり着ける気がします。
追記:
お子を抱いたら肩を吸われ、セーターが涎まみれになった。滞在中、泣き暴れることもなく、夜は寝て朝は起き、とんでもなく空気の読めるスーパーベイビーだった。
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