内海哲也ドラフト答え合わせインタビュー全文公開!【後編】活躍を決定づけたチェンジアップ習得と追いかけ続けた小さなエース左腕
絶賛発売中の『別冊野球太郎ドラフト答え合わせ1998-2022〈増補改定・完全保存版〉』では、NPBの現役から離れた6名のインタビューを行いました。
嶋基宏(元楽天、ヤクルト)、坂口智隆(元近鉄、オリックス、ヤクルト)、内海哲也(元巨人、西武)
白濱裕太(元広島)、寺島成輝(元ヤクルト)、吉持亮汰(元楽天)
アマチュア時代から取り上げてきたからこそできる、内容の濃い、プロ生活を振り返る「ドラフト答え合わせインタビュー」ができました。
noteでは本誌4ページに収まりきらなかった部分も含めた全文を前編・後編に分けて、公開しちゃいます!
【前編はここをクリックしてください】
●代名詞のチェンジアップはV9左腕・高橋一三さん直伝
──内海さんが1軍でブレイクしたのは3年目でしたが、2年目の2005年にはすでに本格的な1軍デビューを果たしていて、26試合に登板。そのうち19試合に先発してトータルで4勝9敗という成績を挙げました。この年まで監督は堀内恒夫さんでしたが、直接アドバイスを受けたことはありましたか?
内海 技術的なものはありませんでしたけど、堀内さんはとにかく僕のことを使ってくれました。2年目は1軍であまり勝てず、弱気になっていた時もありましたが、堀内さんが「自信を持ってマウンドにいきなさい」と言ってくれて、背中を押してもらえました。
──ここで内海さんの持ち球の話をしたいんですけど、アマチュア時代は、ほぼストレートとカーブで投球を組み立てていました。このシーズンも、まだストレートとカーブ中心だったんですか?
内海 いや、この年からチェンジアップを使い始めました。
──内海さんのプロでの代名詞といえば、やはりそのチェンジアップ(後年、自らスクリューボールに呼称を変える)だと思います。
内海 そうですね。
──どういうきっかけで、投げるようになりましたか?
内海 夏前だったと思いますけど、当時2軍監督だった高橋一三さんが教えてくれたんです。ジャイアンツ球場でピッチング練習をしている時に、「こう握って、パッと投げてみい?」と言われ、その通りに投げると、右バッターの外角側へ少し流れながら「シュッ」と落ちたんですよ。「なんだ、このボールは!?」と思いましたね。それまで、チェンジアップという言葉は知っていましたけど、本当の意味で左投手が武器にするようなチェンジアップの存在を、いま思えば僕は知らなかったんです。しかも、この球は不器用な僕でも、ストレスなく投げられる。高橋さんも「ええやないか。打たれてもいいから試合で投げてみろ」とおっしゃって、次の日、ファーム戦の先発でいきなり投げたんです。すると、面白いように内野ゴロがとれました。「ピッチングってめちゃくちゃ楽だな」って(笑)。いまでもはっきり覚えているくらい、衝撃的でしたね。このことも、僕にとっては大きなターニングポイントになりました。そこから、「この球種を完全にものにしないといけない」と思い、習得に励みました。
──高橋一三さんも、現役時代に速球派左腕投手ながら同じ球を覚えて、巨人の主戦として活躍しましたからね。まさに“直伝”ですね。
●年を追うごとに球種が多彩に
──次に、カーブについてはどうでしょう? 社会人時代まで武器にしていた大きく曲がり落ちる変化は、プロでは見られなくなりました。
内海 カーブは結局、安定しなかったんです。試行錯誤の末、スライダーとの中間的な球速と変化でコントロールも安定したので、“スラーブ”として定着しました。
──内海さんの投球スタイルが確立したわけですね。そうなると、ストレートは闇雲に球速を追い求めるものではなくなりましたか?
内海 そうですね。コントロールさせる方にシフトしたかもしれないです。
──その後、2006年のオフにシュート、2010年にはフォークを習得。投球の幅を拡げました。
内海 シュートは左打者のインコースを突く球がほしかったので。フォークは、当時、巨人のスコアラーだった上野裕平さんに、「今後、どういうボールが必要ですか?」と相談したのがきっかけです。ちょうど、トラックマンなどの計測機器によるデータ分析が流行り始めた頃で、僕の持ち球ごとの球速帯の分布を出してもらったところ、ストレートは137~138キロ付近、スラーブは115キロ付近、チェンジアップは110キロ付近に分布していて、「もう少しストレートと球速差の少ない球があれば、バッターが迷うんじゃない?」という話になり、スプリットに近い球速のあるフォークを覚えました。
──最終的な全球種を挙げると?
内海 ストレート、スラーブ、チェンジアップ(スクリュー)、シュート(ツーシーム)、フォーク、あとカットボールです。
──6種類。それらは、年によって、組み立てが変わっていましたか?
内海 いえ、基本はストレート、スラーブ、チェンジアップです。それは変わりませんでした。枝分かれとして、シュートやフォーク、カットを自分の調子や相手打者に応じて投げていました。
●自身の性格は前向き?
──内海さんの性格面ですが、報道されている内容を見る限り、明るく前向きというイメージがあります。いま、お話を伺っていても、まさにそのように感じます。ご自身ではそのあたりいかがでしょうか?
内海 いやいや、他の人とそんなに変わらないですよ(笑)。普通だと思います。
──たとえば、プレッシャーがかかっている時や、落ち込んだ時には、食事がのどを通らないことがありましたか?
内海 それは、しょっちゅうでしたよ。結構、プレッシャーを感じるほうなので。前日の夜に眠れない、ということもありました。
──そういう時、自分から意識して「前向きにいこう」と鼓舞して臨むタイプですか? あるいは、天然というか、目の前に迫ってくると、自然にポジティブになれるタイプでしたか?
内海 うーん。難しいな。まあ、それでいうと、自然に前向きになっているタイプかもしれないですね。
──周囲の人からも、そのように言われたことはありますか?
内海 そういう話をする機会って、あまり無いですよね。直接言われたことはないです。ただ、自分自身としては、とにかく、できるだけ自然体でいけるように事前にたくさん練習をして、「これだけやってきたんだから大丈夫だよ」とポジティブな気持ちに持っていくようにはしていました。
──気持ちの切り替えは、素早くできる方ですか?
内海 そうですね。試合で投げて、反省することがあれば、その日はしっかり落ち込む。そして、翌日朝に起きた時は、もう「次に向けてやっていこう」と強制的に思うようにしていました。
──もし、リリーフだったとしたら、打たれた翌日の切り替えは大変だったと思いますか?
内海 メンタル的にもたなかったかもしれないですね。先発だと、次の登板までに1週間前後の猶予があって、それに向けて気持ちも上げていく感じでしたから。ただ、そういうサイクルでやっていたから、「リリーフなら無理」と思うのかもしれません。実際に役割が回ってきたら、やるしかないですから。慣れれば対応できたかもしれません。
●石川雅規(ヤクルト)の投球を常に追いかけていた
──2006年のブレイク以降は、先発ローテーションの軸として定着しました。2013年までの8年間で7度2ケタ勝利を記録。2012年は2年連続となる最多勝に加え、シーズンMVPも受賞しました。
内海 一番よかった時期ですね。
──奪三振については、2007年に最多奪三振の180をピークに少しずつ減少していきますが、三振への意識やこだわりはありましたか?
内海 若い頃は、チェンジアップの抜けもよかったので、2ストライクに追い込んだら三振をとりにいくこともありましたが、それまでは打者に振ってもらって、打たせて取ることを基本にしていました。むしろ、初球で打ち損じてくれたらいいな、というくらいです。
──たとえば、チームメイトや他チームのピッチャーで、投球を参考にしたり、意識していた人はいましたか?
内海 石川雅規さん(ヤクルト)は常に追いかけていましたね。
──それはプロ入りしてからですか?
内海 いえ、高校時代に神宮大会に出た時に、大学の部で、当時、青山学院大のエースとして投げていた石川さんを初めて見た時からです。
──初戦の創価大戦で、石川さんは延長18回を1人で投げ抜き、1対1で引き分けたんですよね(翌日の再試合は登板しなかったが、翌々日の準決勝で先発完投し、九州共立大に1対2で惜敗)。
内海 「なんだ、あの小さい左ピッチャーは!? めちゃくちゃいいピッチャーだ!」と(笑)。もう、一発で覚えましたよ。翌年、ヤクルトに入団したので、それ以降はプロ入り前からずっと気にしていました。
──プロ入り後、交流はありますか?
内海 はい。何度か一緒に食事させてもらいました。
──石川さんとの会話で学びになったことなどはありますか?
内海 話をする中では特別なものはなかったですけど、石川さんが登板している時のボールの出し入れとか、投球術は参考にしていました。昨年、僕の引退が決まったあとも、「お疲れさま」とねぎらっていただきました。
──石川さんの方が現役として長くなってしまいましたね。他に、たとえば同じ左腕でチームメイトになった杉内俊哉さんはどうですか?
内海 杉内さんは本当にすごいピッチャーです。でも、タイプが違うと思っていたので。杉内さんは球速こそ140キロ前後でしたけど、剛腕というんですかね、ピッチングのスタイルとしては。だから、ただ、ただ「すげえな」と思いながら見ていました。
●100点満点の野球人生
──その後、2014年に開幕からずっと勝てなくなってしまい、8月以降に復調して7勝9敗にまとめましたが、以降は故障がらみで不振のシーズンが続きました。あの頃がプロでずっと上り詰めていた中で最初に訪れた挫折だったでしょうか?
内海 ああ、そうですね。まあ、挫折……。挫折というか……。まあ、そうですね。
──前向きな姿勢で立ち直ることができましたか?
内海 いやいやいや、苦労しましたよ。はい。
──いろいろと試行錯誤されたと思います。その間、メンタルをどうやって保っていたのでしょう?
内海 まあ、家族ですよね。自分のためではなくて、家族のために……と思っていました、しんどい時は。
──そして、2018年のオフ、炭谷銀仁朗選手(現楽天)のFA移籍に伴う人的補償で、西武に移籍します。
内海 ライオンズでの3年間は1番苦労しました。故障もあってほとんど投げられませんでしたから。でも、いい経験も悪い経験もたくさんさせてもらった。そこで得たものを、投手コーチとして選手に伝えていきたいです。
──最後になりますが、ご自身の野球人生を振り返ってみて、点数をつけるとしたら?
内海 100点満点です。やりきったと思います。僕の場合は、小さい頃からジャイアンツに憧れ、そのジャイアンツに入れた。それがすべてだったと思います。
──もし、高校の時にそのままオリックスに入っていたら……?
内海 仮定の話なのでわからないですが、そうなったら、切り替えて頑張っていたでしょう。野球が大好きですから。プレーができるなら、きっと続けたと思います。
──生まれ変わってもピッチャーがいいですか?
内海 生まれ変わったらバッターやりたいです。
──おっと! そうなんですね。大谷翔平(エンゼルス)のような二刀流ですか?
内海 いや、バッターに専念したいです。
──ホームランバッターか、アベレージヒッターか?
内海 ホームランバッターかなあ……。
──誰かモデルになる選手のイメージがありますか?
内海 特にはないですけど……。
──高校の後輩・吉田正尚(レッドソックス)とか?
内海 ああ、いいですね。そうしておきましょう(笑)。
──現在の西武の若手で、内海さんが一人前にしたいと思っているピッチャーは誰でしょう?
内海 もちろん、全員ですけど、特になんとかしたいと思っているのは、羽田慎之介です。ライオンズを背負って立つようなポテンシャルがあると思います。
──191センチの大型左腕ですね。内海さんのように、何年もローテーションの柱として活躍するピッチャーに育ててくれることを期待しています。
『別冊野球太郎ドラフト答え合わせ1998-2022〈増補改定・完全保存版〉』のインタビュー全文公開はいかがだったでしょうか?
本からnoteにお越しいただいた方は、いままで読むことができなかった、未掲載部分を読み、いかがだったでしょうか?
まだ誌面を未読の方、このような深く、独占情報満載のインタビューがあと5本掲載されている『別冊野球太郎ドラフト答え合わせ』をどうぞよろしくお願いいたします!