鎮痛剤で強化アンプルだったTwitter
さて、世間はバレンタインを過ぎちらほらとスギとヒノキの花粉が猛威を振るう季節になり始めたが、私のTwitterアカウントは相も変わらず氷漬けにされたままである。
自分からSNSに触れないのではなく、理不尽にアクセス出来ない状態というのはゲームでの状態異常のように地味に此方の気力を奪うもので、まあ何もかもが捗らない。
この不調度合いについては人によって差があるだろう。
凍結されたとしても特に問題ない人という方が多いかもしれない。
その一方、私のように「やってらんねえ」と床に大の字になるような人もいるはずだ。
思うに、Twitterは私のようなタイプに丁度良い「鎮痛剤」であり「強化アンプル」だったのだ。
この世のほぼ全てをネガティブに捉え、やたらとポジティブな人を見れば「なんかキマっちゃう葉っぱでもやってらしゃる?」と思い、性格も性癖も捻れ狂った末に一周回って普通に見えるような社会生活不適合には、現実というのはより一層重たくどうしようもないクソゲーに感じる。
しかし、どれだけクソゲーだからといってそれを簡単に投げ捨ててはいけないのも分かっている。
自分がクソゲーだと感じていても、何処かの誰かにとっては大切なものがこの世界だ。
ならばせめて、こんな社会生活不適合でも「良いことをしたい」と願う。
そのためには、「まあ捨てたもんじゃないよな」と思う小さなものが必要なのだ。
それはTwitterのタイムラインに流れてくる誰かのペットの画像だったり、
推しに情緒乱されるオタクの叫びだったり、
趣味人のコアな遊びだったり。
様々な公的機関がアカウントを持ち情報発信をしていることもあるのでこの災害大国においてはインフラのひとつとも言えるが、私のような人間にはこの「まだ自棄になるには早すぎるな」と思える小さなものが重要な「鎮痛剤」なのだ。
現実は重たいししんどいし、醜悪なものばかり目に写る。
なんならそうぼやく自分だって醜悪だ。
それでも抱えなくてはいけない現実の痛みを紛らわせる為の、鎮痛剤。
恋愛でも出来る性質の人ならば、幸いにして恋愛という強力な鎮痛剤が遙か昔から人間には存在する。
だが、私にはそれがない。
なので、どこかの誰かのささやかな幸せに頬を緩ませ、痛みを誤魔化すのだ。
人というのは不思議なもので、誰かの幸せを願うくらいの方が調子が良かったりすることがある。
それは別に血の繋がりは関係なく、その人と直接関わりがなくてもいい。なんなら、願う相手が現実にいなくてもいい。
人でなくとも、生き物ですらなくとも、対象はなんだっていい。
私のような性格ねじ曲がりクソ野郎でも、というかそういうタイプの方が、自分より他者を意識した方がもう一踏ん張り出来ることがある。
なので、Twitterのタイムラインで時折そういう「幸せを願える存在」を補給することで「クソ野郎なりの矜持」を保つ。
人としての意識がとんでもなく低い気がするが、「やってられねえ」と全てを投げ出すより余程マシなのでこの低空飛行を暖かく見守っていてほしい。
なので、まあ極端な話雑多な人が行き交うSNSであれば移住もやぶさかではないのだが、Twitterというのは綺麗なものからドブ川まで幅が広い。
そして、ドブ川には自分と似たような「人生やってらんねえけど歯ぁ食いしばっている人」がいる。
勿論その人にはその人の人生があるので過度に仲間意識を持ったり関わりを持ったりすることはないが、こういうのはいると認識するだけで安心するものだ。
自棄にならず、投げ出さずにいる人がいるのなら、負けていられないと意地を張るのが社会生活不適合なクソ野郎の生き方である。
尚、現実の苦しみを和らげるというだけなら酒もアリなのではと思う人もいるかもしれないが、あれは嗜好品だ。
確かに酔っ払うことで現実をはっきりと認識しなくて良くなるのは似たようなものだが、それだけだ。
なので、酔って楽しむのなら良い品ではあるが、現実逃避の品として使い始めるとキリがなくなる。
それで酒量が増えて身体を壊した、では元も子もない。
SNSなども承認欲求を拗らせると破綻が待つものなので、まあどちらも度を超さなければいい話だが。