文雲てん
眠れなかった夜の雑記。ひとりの部屋を定点として観測中。
2021年に撮影された写真と短編小説の作品群です。
儘ならぬ生活と旅
新刊『Lamplight poem』について 先日行われた文学フリマ京都に合わせ、新刊『Lamplight poem』を刊行しました。 『Lamplight poem』 「灯す」という言葉をひとつ心に置いて、日々を歩く。具体的な火の灯し方をずっと考えてきたけれど、詩を書くということが自分にとっては灯す行為そのものだった。本という場所へ火を灯すという試み、灯すひとという在り方へのひとつの応答として。35篇の詩といくつかの写真によって構成された詩集。 105×175m
このあいだ文雲宛のメールボックスの通知がきて、なんだろうと思ったら、そこには『animus』の感想とWebマガジンで紹介したいとの旨が書かれていました。メールで過去に書いた言葉への感想が今、届いたということに少なからず驚きと感動を覚えました。 そんなことがあり、自分でも久しぶりに『animus』をぱらぱらとめくり、いまはもう塞がった傷が生傷だった頃のこと、紛れもなくその時にしか書けなかった話があったなと思い出しました。どうしようもないときに言いたかったこと、言わなかったこと
2月にTwitterのアカウントを消してから、それなりに時間が経ちました。というか、実を言うといつ消したかということを忘れるほどに、SNSに投稿することがなくなっていました。それからは月に2回、封筒に詩を入れて送ったり、日記をつけたり、ショートショートを書いたり、その種みたいな話の断片をノートに書いたり、そういうことばかりしています。 現代詩手帖2024年6月号の新人投稿欄で「ブックマーク」という詩が選外佳作に選ばれました。心のなかでスキップしながら帰りました。その次の
ブックマーク おなじはやさで流れていく川の毛並みは淡く夏めいて隔たれた二つの道を行く人の爪は青白い夜をスキップして再生、そして遠ざかる薄鈍色の歪な形をした一文字めは川底にある便箋を送り出すたびに失う文字を思いながら 多くは運ぶために送料がかかる あなたは 自転車にのっていた 軽やかである 必要があったから 僕には その必要がなかった どこかで撮影された映像 タイムラプスのスピード と、ほんとうのはやさ 回旋する頸椎のために 背筋を伸ばす 空き地じみた月極ガレージの フェン
日記を書くようになってしばらく経つ。昨年はすっかり忘れて1週間分をまとめて書くようなことが何度もあったけれど、今年に入ってからすでに去年の同じ時期と比べて倍書いている。比較ができるのはWordで日記をつけているから。手を動かして書くのは好きだけれど、日記に関してはそれで続かなかった。誰に見せる予定もないごく個人的な言葉たちをふと見返すと、過去の記憶が言葉によって支えられていることに心強く感じる。もっと早く気づきたかった。 去年の日記は短い生活記録だった。一度寝たら起きれ
その日、本の後ろで立ったり座ったり、喋ったり、寒くて震えたりしていた。ほとんどの時間を本の後ろで過ごし、たまにそこから離れた。目の前に自分の言葉の集積が本として横たわっていて、そこに立つ人々が静かに頁を繰るのを少し視線を逸らして見ていた。本そのものを手にとってもらった時に、適切に言葉を添えることはすごく難しい。それでも本の後ろにいて、その光景が目の前にはあるということが不思議なうれしさという実感をもたらしてくれる。 自分のブースを目的に来てくださった方がいて、尊敬する作
気づけば11月が終わろうとしている。ほんとうに気づけば、という感じで最近はあまり見える場所に文章を書いていなかったなと思った。こんなにも自分のことなのに、なぜだかすごく近い他者の気分で。インターネットと距離をとろうという意識的な作戦とかではなく、単純に自分の中に言葉を還元している時期なのかもしれないし、見える場所に置く言葉へのハードルが少し高くなったのかもしれない。とはいえ、いまは本を作っているので、それが一番な気もする。 もうしばらくはそんな感じで、ここ一年ほどあらゆ
二日前にボーリングをしたときの筋肉痛がビリビリとしている。「普段使わん筋肉やから」と言ったその言葉が、じんわりとした腕の気だるさとともに残っていた。筋肉じゃなくたって、そういうものがきっといくつもあるんだと思う。あえて使わないようにしたもの、もう使いたくないもの、使わずにいるうち忘れてしまったもの。 話せることが何もない、と思った。いまでも息を吹き返すように通知されるグループLINEが苦手だ。覚えていたいことも、思い出したいことも、何かのきっかけで身体中を巡る記憶だって
生活は脆い、どうしようもなく不器用であると自覚している。乱れ切った生活のなかでは、時間という意識さえも淡く遠いものになるような感覚がある。ここ1週間で二、三度、真夜中にコンビニまで歩いた。なんとなく手持ち無沙汰な気持ちになって。稼働し続ける信号機や、そこを行き交う車や、煙草を吸う人に、その瞬間にすれ違い続ける生活の営みに紛れる。触れたという確かな感覚が欲しくて、だからこその夜行。言葉未然のものへの渇きを満たすことで精一杯なときの儘ならなさを、わたしは何度だって自覚しなおして
この生は逃避によって続いてきた。いまも、逃げているといえばそうだろう。何から、と問われればそれはきっと多岐にわたる。出来事から、人から、言葉から、規範から。わたしはずっと、ごく自然に、よくわからない人でいたかった。 近づけないのではなく、とおいひと。概念ではなく、実体めいていないひと。やわらかな部分を晒しながら(例えばことばのかたちをした思考)、かたい部分はずっと夜のなかに置いてあるひと。わたしは実際に会って話すよりずっと多くのことを書いてきた。書いて、ひっそりと置いて
眠れない日が増えた。過去、眠れない日々にはいつも傲慢ながらにも理由があった。ベランダから見渡せば、何時だろうと絶えぬ光が見えたことは、どこかできっと安心だった。手紙に結ぶ最後の言葉は、静かな夜が増えてった。心配で眠れない夜に音がないことは、真っ暗闇の中にたったひとつ光を放つ火災報知器のランプの一点に吸い込まれてしまいそうな怖さがあった。だから、瞼を閉じる前に鳥の声が聴こえてくることは安心。 どうせ眠れないのなら定点観測してしまおう、というのは思いつきだが、眠れないでいる
その日はうまく眠りにつくことができなくて、カーテンの隙間から見えた街は薄い膜を帯びて、肌に触れるひんやりと冷たい生まれたての空気に促されるように、ふらふらと歩きだした。ぴんと張った空気が撓まぬよう、そおっと、いっぽ、いっぽと繋いでゆく。点滅する信号を通り抜ける。まだぼんやりとした水縹色の空に、白い上弦の月がふわりと浮かんでいた。明日でちょうど半月になると思った。新月のときにまっさらに戻ったWordファイルには、また物語の息が吹き込まれつつあった。明日には完成させなくては、ハン
「変化って言葉に左右されない物語があるとしたら、なんだか永遠に終わらないでいられる気がしない?」 ある夜、公園でお花見という名目でお酒を煽っていると、シノイ先輩は足元に花びらを集めながら呟いた。 「そういわれると、物語ってそもそも終わりに向かっていくようにできてる気がしますね」 「変化してく話題を追いかけていくんじゃなくてさ、ここにあるものを語ろうとできたらいいのにね、時間の軸があることが前提だとしたら、止まることのない自動通路に最初から乗せられてるみたいで、と
「もしいま生きている時間が記憶の中だったとしても、あんまり違和感がないかもしれない」 湖畔の岩場でいつもみたいに駄弁っていると、ハマは組んでいた胡座を崩して、膝を伸ばしながらそう言った。 「なんでそう思うの」 なんでそんなこと言うのかと問うことはふたりの間ではナンセンスだった。ハマがしてくれる仮定の話は、ちょうど現実と夢の間にある何層もの薄い膜の一枚に触れるような話で、ほんとうはこの二つは綺麗に二分化されるものではないとさえ思えた。 「何度も同じところを再生し
「だいじょうぶずっとそうやってやってきたんだから」 電話口の声が妙に遠くに聞こえて、細切れになるはずの音節がくっついたままでいる。わからないのは、意味という殻を脱ぐということが起こるから、そうちょうど玄関で靴を脱ぐみたいな文化。疲れてしまって腰を下ろすけれどカーペットは冷たくないからキッチンで目を閉じるんです、夜は最近あまり眠れない。 大丈夫だよって言って欲しくて、自分ではない誰かにそれを教えて欲しくて、物語を作ったことがあるよ。鉤括弧はいつも同じ名で、無声音のセリ
はじめに断っておきたいが、これは日記ではない。ここで起きたことというのは確かにあったはずだけれど、言葉にされなかったことの方がもしかしたら多いのかもしれない。落葉樹の枝のように、巡りゆくものの行く末を見守ることしかできない。木の枝として、あるときはやさしく踊るような花のことを、あるときは穏やかに揺れる新緑のことを、そしてあるときは散りゆこうとする枯葉のことを。 「写真というものは標本みたいなものだ」 木の枝が見るこの星の歴史。一本道が違えばまるで別の街が浮かび上がる