「頑張る」って、怖いことだと思う。
私には夢がある。大きな、大きな夢。
日本をよくするぞ!みたいな類のもの。
そのために、ということで自分なりに頑張ってきている。考えて行動している。
でも私は、やり切る、というのができていない。
なんでだか、「頑張る」のが怖いよっていう話をします。
(そんなに暗いつもりはなくて、自分を俯瞰するのでよろしくね、読んでくれてありがとうね、という感じです。)
長々と話すまでもなさそう。
シンプルに、心身を病むのが怖くて怖くて仕方がないんです。
頑張るなら、睡眠時間や食事の時間を削って、5分単位ですることがあって、バリバリ頭使いながら生きなきゃ、というイメージ。
自分で限界を決めているな、よくないぞ! とも思うのだけど、えーー無理そう、とも思ってしまう。
甘っちょろい、、
読んでいて、そう思う人は多いだろう。
一部の人は、私も!と思うのかな?
んーー、でも「頑張る」ってなんだ?
という話ですね。よく考えると。
辛いときに、手を抜かないことだろうか。
思い返すのは、部活。倒れるまで頑張る人がいた。
私は、辛い!きつい!となってくると少し頑張るが、倒れたくないからちょっと手を抜いて頑張った。倒れたことはない。
「頑張る」というのは、全力を出し続けると言うことになるのだろうか。
思い返すのは、受験勉強。
私は、あまりに頑張れなかった。スマホの誘惑に負けるし、勉強するのが嫌でおやつをたくさん食べて、頑張って自習室に行っても、気づいたら寝ている。あの頃、1日何時間勉強できていたんだろう。
ある友人は勉強時間を公開するアプリを使っており、1日10時間くらい勉強していた。実際はわからないけれど、少なくとも私よりは勉強を頑張っている! という様子だった。
「頑張る」とは、目標に向かって自分の時間を最大限に使って努力をすることなのだろうか。
そう思うと、部活での頑張りは、いっときの辛さに惑わされずにあるべき姿に向かって自分の時間の充実度を最大限に高めるために努力すること、と言える気がする。
あえて思い返すのは、『夜と霧』。
アウシュビッツに収容された人たちは、「頑張る」という感じでいたのだろうか。
あの環境はおそらく地獄で、その中でも「頑張る」という感じの人はいたと思う。
ただ、ひどい環境で飢えていてまともな生活を送れない中で、「頑張る」=全力を出し続けて自分の時間を最大限○○に向けて努力する、なのであれば、それはとても難しいと思う。
あの環境での頑張る、とはなんだったのだろうと思うと、漠然とした未来のことを考え、そこにつながる今だからと自分を奮い立たせて、生きるためにほどよく手を抜きながら服従することだったのかな、と思う。全ての瞬間を全力で!!!というような気持ちにはなれない状態だろう。はりきって何かをできる、とかはなさそう。
生死の狭間にいる中で、心を病んだらどうしよう、なんて考えやしないだろうな。とにかく、生きるための努力と思考を重ねると思う。頑張らないとすれば、諦めて命を落とすことを選ぶことになるのだろうか。
「頑張る」について考えると、この環境は幸せなんだなと思う。命の危険に晒されることなく、日常が(たぶん)保証されていて、未来に向けてどう努力するかを考えている。(もちろん、少しは行動もしている。)
私の思う「頑張る」ってなんだろうということが、だんだん見えてきた。
私の思う「頑張る」は、たぶん何かを犠牲にすることを考えずにがむしゃらに努力することだと思う。前提としてある程度は恵まれた環境がある。(つまり、アウシュビッツの話は私の思う「頑張る」からちょっと除外する、、、、犠牲とかがむしゃらさとかそういうのをあの事象から考えるのは失礼な気がする。想像を絶する精神状態と生活環境だろうから頑張る頑張らないとかそういう話ではないな)
頑張る、の先には何かしら目標があって、それに向けてどう努力するか、が多分難しい。
私は努力もしたいけど、犠牲にしたくないものが多いのかもしれない。甘っちょろいけれど、そこまで本気の目標ではないのかもしれない。
「頑張る」が無理だなぁと思うなら、自分なりにどう努力するか、どんなふうに目標に向かうことを目指すか、考える必要があるなと思う。
頑張ることで何かを犠牲にするのは怖い。これが私の思う「頑張る」が怖いということなのかもしれない。
何かを犠牲にするかもしれないと思うなら、それはやっぱり怖いな。わからないけれど、犠牲にしてもいいと思うものが少なくなるくらい、今に満足しているということなのかもしれない。
でも、もうちょっとステップアップしたい。少しは何かを犠牲にすることも視野に入れながら、目標に向けた努力をしたい。
できることなら、私は私なりの頑張り方を見つけたい。
この環境でいられることに感謝をし続けたい。
そして、これを読み返した私が今よりもしっかりと目標に向かっていますように。目標がなくても、幸せに過ごしていますように。