特定の属性である事をもって受ける不当な扱い問題の解決にとって最大のネックは、表層形断罪の時代を終わらせまいとしてるも同然な人達だと捉えましょう
2022-1-006
特定属性である事をもって受ける不当な扱いに対して、
表層的でない(搾取される側から搾取する側へ、といった立場反転の為の属性利用はじめ、立場の変換可能性見出しを先行させてない)解決を望むなら、
まず、表層形断罪の時代を終わらせまいとしてるも同然な人達(その中でも特に、教育者は地平の再生産サイクルを担ってるため責任大)を糾弾対象と認知するところから、
始める必要あると考えます。
例えば、感情なり、各人のできる事できない事(有限性形態)の差異なりに対する、
代替不可能な内在事情外在事情にしか応じない主体像の下で生じてるなら、内実が確からしいのでOKとの前提を持たない肯定否定を、
権威付きで通そうとする人達は含まれると思います。
過去なり現在なりに対する、歴史性を抽象化具体化の交互反復と捉えた上で精度最大化された抽象化具体化の帰結と言える歴史(個人レベルから人類レベルまで)なら、
内実が確からしいのでOK(批判ポイントは精度不足)との前提を持たない肯定否定(自分にとって都合の良い時代を基準に為す、現在への断罪など)を、
権威付きで通そうとする人達も含まれると思います。
表層形断罪の時代を終わらせに行かずに、先の不当な扱いを改善しようとするのは、
抽象次元がより確からしくなるに伴う、個々具体の捉え直され作用を後回しにしてる以上、
捉え直されてれば捨象されてるものを問題に含めてたり、林檎は数えられるけど蜜柑はできない(厳密には前者もできてない)状態で満足してたりが不可避であって、
緊急を要するとか認知されてないといった余裕のない局面における次善の策と解すべきでしょうから、
理想と現実の関係を、何ら限定されてない状態の準備と引き受けざるを得ない限定条件の割り出し、これらの最大限化枠組みに落とし込む事で、
理想現実関係の排安易なバランスを達成する(選ぶに値する状態である、通用の行き渡ってる状態を、
割り引き理由の代替不可能化による通用性補填で達成する)解決方向に対して、
阻害してる形の人達(文系域に、具体化精度の最大化、絶対主義相対主義の同時否定、フェア志向を持ち込むのを阻害する人達)も含まれると思います。
その枠組みと先の主体像や歴史像は、抽象と個々具体の関係なので、内在不問外在軽視な内容の自由
(井の中の蛙的であるほど浅知恵を浅知恵と理解できなくなるだろうに、大した理由なく死角領域作るスタイル)を、
社会に定着させるべく、権威を付すなどして励んでる人達も含まれると思います。
(残念ながら、内実の確からしさを確保し続けた帰結としての固有性と、そうでない疑似含みの固有性とを区別せず、両者に同じ資格を保障する方針は、
言わば、ドーピングしてる選手をレースに参加させるようなもので、各場が着目するよう要請してる差異を埋没させる点から見て、
内在不問外在軽視に該当するように思われます。
資格を開く話はキリスト教から人権まであるわけで、
内面世界も場と見た、各場への形骸でない尊重としてのフェア志向、つまり、各場の疑似でない固有性に即した割り振り原理への支持を、
抽象次元に据えた、抽象具体の関係構造をもって、
本人を埋没させたままある意味別人である疑似を、例えば、井の中の蛙状態故に捨象できてない苦しみを、需給成立対象にしてしまう、既存の救済対象開く系理念を捉え直す為にも、
フェア志向と同等である、具体化精度の最大化と整合的な自由観を、通念的な自由観に差し替える必要が言えるように思います。)
もちろん、糾弾対象と認知しても具体的な反応は先の主体像でもって具体化する
(その結果、修正働きかけが採られ、しかし修正が拒まれても、理想とそれを割り引いた現実との関係は、先の枠組みに落とし込まれてる為OK)のでないと、
自身も含まれてしまいます。
ところで、認識場や成長老いを正確に浮かび上がらせる試みは、言わば、表面のほこりを払っただけの
(その水準の疑似化除去で帰属修正を終わらせる為、相対主義の域を出ない)実態主義に過ぎず、
実態における疑似化の含有程度まで抑えにいくのが、先の主体像や歴史像と言えます。
(もちろん、場の性質の違いへの感度、場が課さざるを得ない限定作用への感度が機能してれば、
場に価値を決めさせない態度に加え、特殊性を安易に普遍扱いへと飛躍させる絶対主義も抑えられます。)
精度の高い検証実験の結果を仮説に反映させるのと同等な枠組み(確からしさ向上や確からしさ確保な変遷を最大化させてる枠組み)の下で、認識場なり成長老いなりを構成するそれらにおける、
問われてる差異を精度良く取り出す具体化精度最大化の、文系的局面版としてフェア志向があるわけですが、
既存の教育は近代性(同種の他との差異要素の捨象能力への強制特化)を背景に持つ為、
教育に対し妄信的でいると、フェア志向に必要な同種の他との共通要素の捨象能力は埋没させられて
(対象理解にしても、その捨象を用いた抽象化具体化の不足を、主体自体なり概念の持ち出され方なりに見出すところまで行かず、実態主義に留まらされて)しまいます。
なので、具体化精度の最大化と整合的な自由や平等を、つまり、具体化精度が最大化されてる状態に着目無視を保つ(阻害要素を捨象する)内容の自由や平等を、
できるだけ早く獲得し、いらぬ特化(具体化精度低下)に当たる枠組みインストールを避けたり、
いらぬ特化を強いてくる主体と精神的に距離を取れたりができるようになる必要があります。
(例えば、憲法がそのような自由平等でなく、通念的な自由平等を採用してると知れた時点で、つまり、小学生からでも、
学者という存在や既存の知的環境には、妄信という形で合わせ込む具体化を採用する価値はない、
もちろん、いらぬ特化を避ければ良いだけなので、全否定のような反動反発もしないポジションに、
立つ事は可能なはずです。)
言い換えると、具体化精度の最大化と整合的な自由平等観の採用(内在不問外在軽視な内容の自由平等観からの移行)が早いほど、
認識場に関する理想現実関係(認識対象への割り引きや加工)を、通用性が補填されてる状態に、
ひいては、認識を踏まえた振る舞いを、負わせるに値するものしか外界に負わせない善状態(の形骸化阻止)に、持って行ってる側に行きやすい、
表層形断罪な世界を維持する側でなく、刷新する側(叶わなくても、できるだけの事をしたが駄目だったという、
理想現実関係の安易でない関係は、つまり、理想現実関係における選ぶに値する状態は、帰結される)に行きやすい、
そう言えるはずです。