寛容や多様性の謳われ方の責任( 愛にも歪んでいるいないがあるという程度の理解はあっても、質についての枠組みの射程が限定的である責任)の所在について
2020-12-002
自分が奪ってるケースに関しては相手の事を特に気にしてないとか、取り繕ってるだけなので実質があるかないか分かったり気にするだけの知性や倫理が持たれる事を望んでないとか、そういう主体が、
ドーピング選手にもレースへの参加が開かれる的事態を意味する(ドーピングによる優勝のような分捕りの発生に鈍感な)類の寛容や多様性を謳ってるという構図なのなら、質的な矛盾はないと言え、
帰属の操作に相当するものの除去追求が事実上、理系域でのみ展開されてきた近代以降の状況が未だ続いてる以上、そういう事もあるだろうという感じの話かと思います。
批判されるべき事が起きてる場合、各々の条件(否定するという主題が置かれる事になる場の性質)次第で具体的反応は異なるとはいえ、泣き寝入りの回避が期待できる批判は有り難い一方、
批判部分を取り違えてる批判行為もままあるわけで、
例えば、自身の資質と環境の代替不可能な固有性(引き受けざるを得ない部分)の反映とは言えない
(その意味で表層的要素に振り回されてる、表層的要素を本質的要素かのように扱ってる結果の)具体的反応しかできない人が、
否定に値する部分を的確に掴めるかは疑問です
(林檎を数える事ができないのに数を数えられてるつもり的状態での反感であると、内在の改善を怠ったままの対外在であると疑える)。
場の個性(その場において取り上げるよう要請されてる差異)を掴み損ねたりで尊重できてないとか、抽象化具体化の精度が十分でない
(具体形の差異パターンが拡張される情報を、抽象物の質向上に生かせない等含む、捨象設定に不備がある)点を批判の焦点とする事で、
実質が詰まっているいない(形先行や量先行も、局面要請と合致してる限りは詰まってる)に関係なく表層形で肯定否定するセンスと、決別する必要があるのだろうと思います。
(割り引きのやむを得なさを問うのでなく、理想が割り引かれる事自体を咎める有り様は、理想状態への一足飛びと表裏であり、いらぬ飛躍への忌避の薄弱傾向は知性使用の雑さに関わる。)
愛にも歪んでるいないあるという程度の理解は振分け原理の追究はともかく当然あるだろうに、質に関する枠組みの射程が限定的(利得や不利益回避を含まない等)なのも(寛容や多様性の謳われ方まかり通り方もその弊害)、
自身について実質が詰まってる状態を確保する主体と実質の有無で肯定否定をする社会、という図式が目指されてないのも、
ドーピング込みの走力を選抜根拠として認める的水準で、帰属把握や審査場準備の能力が止まってる、つまり、先の焦点を自身に向けてこなかったこれまでの文系学者や、
彼らに知的説得力なり権威を認める環境を構成してきた人達の責任であって、その意味で我々全員に責任があると認め、
各場の本質に即して割り振られた損得や役回りを支持してるしてない、という意味でのフェアアンフェアを区別しない類の保障を内容とする、既存権利観が抱えてる悪用される隙を塞ぐ方向の影響力として、
そこの支持を合意点(Aによる分捕りは許さないがBによる分捕りならOK、Cという表層形への断罪は許さないがDという表層形は断罪する、否定反応がそうした振り替えに矮小化するのを防いでくれる地平)としつつ、
代替不可能要素の特定としての知性や代替可能要素への代替不可能扱い忌避としての倫理を、場の個性に対し働かせてる秩序が規準となってる肯定否定やその具体的反応を、自他に求めてくべきかと思います。