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解決に関する、脱却を果たさない限り近代が終わらないのに、今なお普通に見られるある種のセンスへの対策について、成功体験の弊害化を踏まえつつ

2020-11-004

自己の振る舞いの根拠を代替不可能化する事で、原因帰属の把握精度の限界にも現状これ以上無理と言えるだけの内容を与え、批判行為の多くが、帰属しない罪まで擦り付けてる形になる展開も抑えてる、

自己の非を認めない、妥当(場と齟齬ない)であろうが損失や損な役回りを引き受けないなどの、原因帰属の把握精度の低下に繋がる傾向を大して忌避してない結果、多くが擦り付けてる形になってる、

この両者に扱いの差をつけない、実質が詰まってると言える言えないの差に鈍感な者が、何らかの対象に肯定的反応を見せてたところで、
その内実は、表層形のみで断罪してる形の反転形レベルと疑えるように思います。


実際、その場その場の固有性の体現としての体系となるよう管理してるしてないとは無関係に、社会や内面世界の有り様が肯定否定され、その方向に影響力が行使されてる限り、
実質価値のある事を為してるつもりになってるだけの(それでも為されてると思わせられれば影響力はあるだろう)対社会、対局面、対内面が展開されたあげくの、場の固有性の発現阻害形しか期待できません。



実質が詰まってないものを足掛かりに何かを得たり回避してる形を、不当な不利益回避や利得と捉えない様も、そうした鈍感さの現れと思われ、

例えば、テクニックを使ってるつもりで、実際には振り回されてるケース、
マニュアル対応(一対一対応を越える類の自己判断の放棄)を局面上やむ得ない次善の策扱いとせず、頼らないで済むだけの実力得る機会を無駄にして、その次元
(全体の中の、ある部分的領域での知性や倫理の行使)に留まり続けてる例なども同じでしょうし、


人類規模では、それが近代パラダイム(内実不問、表層反転処理の傾向)盲従による、知性や倫理の持ち出し方の矮小化(その弊害としてのいらぬ不幸発生への限定的対応)として見られるのであれば、

十分根拠がある状態(通用が行き渡ってる状態)の確保原理(抽象化具体化の精度を最大化させる検討)の適用範囲拡大や精度向上、
権益保持をフェア(場の本質に即した割り振りへの支持)志向に先立たせない枠組み(量先行や形先行も局面要請への応答に限る等)の採択、

それらを、肯定否定反応(に基づく展開)の前提に据えているいないに、質の高低を見る時代へと持ってく働きかけが必要と思います。



例えば、問われるべき差異(場の本質によって規定)が損なわれる事なく取り出されるように、大会運営と選手がそれぞれの立場からコミットする(担う役回りを他方が果たすよう働き掛ける内容の、双方の権利行使含む)、
この管理側被管理側の間の関係性についての原理(秩序が肯定される上で備えておくべき原理)イメージを、

押さえてれば取り合う必要のない、対体系における、暴力性権力性が持つ表面に大騒ぎしたあげくヒロイズム的カタルシスに走る方法論(本筋は埋没し、先の発現阻害形問題も解決できない)が、

静性絶対性を表層反転させるだけでも(むしろ、矮小化故の分かりやすさが)有り難いといった時代事情に応える形となった結果、
権威を帯び、現実の秩序有り様に関する領域で幅を利かせ続けた(次善の策に頼ってる次元に留まり続けた)という事例は、


仮に、戦後直後にその時代を生きる者へのエールとして生み出され、実際そう機能した一方で、時代事情抜きの観点ではそこまで評価の高くない作品があったとして、
前者側面に引きずられて評価の帰属がずれた結果、本来感謝すべき点に至っては希薄化を来した的、時代事情(局面事情)との関係をほぐせず成功体験が弊害化してるパターンが、

近代パラダイムを乗り越える際(表層反転センスからの脱却が果たされない限り、近代は終わってないと見るべき)のネックになってる留まり構造の、入れ子現象の形で現れてるように思われます。



また、より基層に近い領域で近代パラダイム(知性や倫理の持ち出され方の矮小化)を乗り越えたと言えるには、

真偽と自由に関する、加工なり制限なりが有るか無いかという既存観点を過去のものにしてくれる(近代はむしろ強化した形)、
加工は常にある上、その大小(程度)でなく過不足(場との齟齬)が認識や存在における問題であるという(カントやプラトンにおける割り引きについての理解に対する修正試みでもある)観点への拡張なり移行や、

その移行を、有限性を負う事自体は与件であると認めるものの、代替不可能とは言えない有限性まで負うのは拒否する、という内容の対有限性にまで繋げる整合化の達成が必須と考えます。


負う有限性を代替不可能化させてる人ほど、
より確からしい(通用領域の広い)ものが取って代わる運動性を阻害してない(いらぬ限定、いらぬ加工を与えてない)在り方(その運動性にとって検討された具体化条件に相当する在り方、
というか、我々はその運動性をどう体現するかさせるかの検討、より確からしくなる余地無くしを十全に機能させ続ける以上の事はできないのであって、この上限方向にその運動性を展開させてる在り方)に近付いてる、


批判の類も、己の非を認めないで済むような、擦り付けられるような性質を見つけ出し都合の良い関係構造を仕立て上げてるという内実から離れ、その運動性を阻害してる部分の縮減を図るという内実
(認識や存在を成り立たせてる原理のように思われるのに沈んでる、次元設定自在性としての人間性を使ってるつもりで振り回されてる事態に埋もれてる、その運動性のサルベージ)に寄ってる、そう期待でき、

後者の意味で機能してる批判には、
理解(対象に関する抽象具体の関係構造を確立できた感)処理の(統合や変遷込みの、これまで生きてきた中でこなしてきた)総体や、
通用が行き渡っているいないの(OK扱い、確定扱いする程度についての加工を、現状での十分不十分といった局面事情の反映にあくまで留める事で、一足飛びを抑えつつの)判断の蓄積という、
我々の言動が背景に持ってるだろうものに見られる、

いらぬ偏り(資質や環境によって帯びる偏りの中で、不可避的とは言えない部分、右しか見てない的低通用事態を大した理由なく引き起こしてる部分)なり、
(抽象化と具体化の精度最大化を、場の本質に即してる状態感の確保を、怠る事で生じてる)形骸化を、

最大限修正してくれるとの期待が可能と捉えれば、近代パラダイムは我々の言動に対し基層レベルからいらぬ限界を与えてる(確からしいものであるかのように勘違いさせてる)形、そう言えるとも考えます。


しかし、乗り越えようにも上と同様のネック構造が疑えるのだ(領域によらず生じ得るとの想定で臨むべき)とすると、

使ってるつもりで振り回されてる事態に陥ってる可能性に、実質が詰まってると言える言えないに、敏感である必要性への理解を、
場が決めるところの表層的要素をできるだけ正確に選り分けられるよう(いらぬ振り回されを抑えられるよう)、局面と着目無視の合致
(その局面において取り上げが要請されてる確からしさ差と捨象設定の合致)に軸足を置く必要性への理解を、

押さえる事も、先の二つに加えて前提化の対象とすべきように思われます。

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欧米文系からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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