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2787文字、奪う者として世界に参加してる人の都合に付き合うよう強いる力が、倫理や存在価値を偽装してるという話

2024-7-005

代替不可能な内外事情にしか応じない実存と獲得喪失有り様とを整合させていてやっと、
存在するのと引き換えでない要素を存在に帰属させる帰属操作を自身に関して許容してない形となる為、
何らかの搾取を非難しておきながら実際は奪い合い世界を保全してる(奪う者として世界に参加してる)形骸パターンを避ける上でそこの整合は重要です。

外在場の本質に合わせた結果であれば場を荒らす事も荒らさない事も肯定する表層形開放の帰結として生じた獲得喪失も、当然この整合の産物です。
取り違えを最小化した局面事情と着目無視設定との合致の下で他者に接する平等(場の本質の下の平等の一種)を受けた者が、その対他者によって生じた獲得喪失を受容しないなら、
そこの整合が言えないので、奪い合い世界を保全してる側であって、そのように接した側に与さない場合、自身も保全側になってしまいます。


実際、空気を読むにしても、場を荒らさないという表層形に限定した矮小化は、
戦争という表層形をもって奪うのは否定されるが戦争的か平和的かといった表層形によらず奪うという現象一般の否定でない、
むしろその方向性を潰す、したがって、上の形骸パターンとして表層形次第での泣き寝入り強要が発生する内容の平和教育と同じ構造です。

市場も需給事情の実態を割り振りに反映させるに過ぎず、上の実存のみが需給事情を構成してるケースとの差分が帰属操作に相当してる為、市場を根拠とする評価は事実上、同種の矮小化であって、
奪う者として世界に参加してる人の都合に付き合うよう強いる力が、倫理や存在価値を偽装してるのが現状であると言えるように思います。



また、その実存を生きてない事実は、文系事象について、限定されてない状態と負わざるを得ない限定条件から成る状態像から見た実際とのズレを修正余地として取り出す能力を原理レベルでは持ってない
(林檎を数えられないのに蜜柑はできてるつもり的な原理不在が言えてしまう)事を意味しますから、

限定条件の付し直しも修正余地がないレベルではできないので、文系事象の有り様についての、
状況変化や立場変換に即した修正余地ない像を語ってる場面に出くわしても真に受ける必要がないと見なす条件であると言えます。


修正余地がないレベルで具体化条件を付し直せる能力は、理想を割り引く程度を最小にする現実が常に採用されてる場合に、
例えば、理想を大きく割り引いたとしても正当な理由がそこにはある事になる為に可能となる、仕方なさの上限化にとっての前提です。

その実存はこの現実でもありますから、その実存でありさえすれば仕方なさが上限化されてるので受容する、という表層形開放、
アリとキリギリス的な表層形に引きずられた納得いかなさ(あるいは、表層形に関する既存の評価基準に反動反発して価値体系を反転させるだけで、
表層形断罪の次元の外には出ない反応)からの解放でもあるこれの否定である、

その実存への志向の欠如(獲得喪失にこの志向を先立たせる態度込み)が見られる文系者には、
表層形に過剰に引きずられてる分だけ知性倫理美意識が機能してない(修正の余地があるという意味で確からしくない帰属関係でも満足してしまう)との扱いを受けるだけの十分な理由があると考えます。



その実存を生きてないなら、自分が自分である限りこうならざるを得ない感(内在場の個別性の、ひいては、内在場において割り振り原理になってるものの疑似化が防がれてない為、
行為選抜であれ意見選抜であれ感情選抜であれ勘違いでしかなく、持ってる選抜原理の確からしさが低いほど、

便利さ等の選択肢増大に振り回される程度が大きくなるという環境変化への低通用性が想像される)を、
押し出していようがいまいが、存在に関する帰属操作の受容を強いてる(不当な獲得や不当な喪失回避を避ける気があるなら矛盾してる)わけですが

(したがって、代替不可能な内外事情にしか応じない実存部分以外には付き合わない対人が必要であるけれど、
対文系での既存の理解力像には、対象が内在性質と外在性質を取り違えてる程度の把握は含まれてないので、
まず、理解力像の形骸性に付き合わないよう、ひいては、知性倫理美意識が対文系でも帰属修正として働き、帰属操作の保存として働かないよう、個別性の取り違えに対する敏感さを保持する必要があります)、


通用してる領域の広狭と確からしさとの相関を何の差異に関して持ち出すかという観点設定にも適用する
(足の速さが問われてる場では家柄の差異なり薬の利き具合の差異なりの通用性判定への影響を防ぐ)レベルでこの相関にしか頼ってない場合、

個別性が根拠になる局面で、取り違えを最小化してない内在性質外在性質の影響込みの個別性を根拠にしたり、最小化してる個別性まで捨象する個別性捨象を根拠にしたり、
両者の二択枠組み(それ以外ないかのような矮小化は表層形反転を解決とする発想、
例えば、前者への批判にかこつけた後者の押し通しやその逆関係に話を落とし込む対応)で満足したりは避けてるはずです。


なので、その相関への立脚の限定通用性(確からしさ判定の対象にならない領域がある以上、この状態で為される正当化には必ず妄信が含まれてる為、
対妄信の哲学を自負してようと、先のレベルの立脚が言えないなら形骸)が近代以降は、

個別性が根拠にならない次元で通用が行き渡ってる、という内容の確からしさの一種である客観的事実については確からしさ判定の厳格さが追求され、
個別性が根拠になる次元で通用が生き行き渡ってる、という内容の確からしさの一種である主観的事実についてはそうでない、

この種の形(デカルトが確からしさ判定の対象に、自我を内在的な問題解決スタイルとした時の個別性有り様を入れなかった影響)を採りつつ
(市場を根拠とする評価が現状茶番であるように、個別性が根拠にならない局面もあるとはいえ文系空間における評価は基本的に茶番であって、

しかし茶番にも、足の速さが問われてる場で家柄の差異が反映されてるのか薬の効き具合の差異が反映されてるのかといった違いはあるわけで、近代以降の茶番性はこうだという話)、
その実存を生きてない人の帰属修正機会(奪う者という属性からの解放)の放棄(自己正当化や他者有り様保障)を可能にしてるのだと捉えましょう。


内外境界発生意味する有限の与件性が、より確からしいものが取って代わる運動性の受容阻害を最小化してる時、修正余地がない為に解決状態と言えて、
これは人の有り様だろうが主題の有り様だろうが同じなので、この意味での解決状態からのズレを保存する内容の言動、

対権威での態度なども含み、付き合うと解決阻害への参加となるそれに対しては、
生は問題解決の集積なのに問題解決の内在性質が取り違え最小化されてない結果の産物として扱いましょう。

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欧米文系の権威性からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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