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3332文字、既存の哲学(対問題の抽象度の低さが許されてる)がベースになってる世界と決別できてると言える為の条件について

2024-1-003

点から線への次元飛躍には、カバーしてる点を同種の他との差異要素捨象によって有限から無限へと持ってく処理(林檎も蜜柑もまだ見ぬものも数えられる的原理の獲得)が必要と認め、
呼吸や姿勢制御からして問題解決である為、無数の問題解決から成る生にもこのイメージを重ねるとしても、

記憶障害(櫛の歯が欠けた情報状態を強制され、時間や距離や状況把握に、ひいては、生遂行に実質を欠いた主観構成、
言わば、現実と自身との結び付きをやむを得ずアウトソーシングしてる状況)ではないけれど有限者ではある、大抵の人にとっての主観上の連続性は、
無数の具体をカバーできてる状態と、生遂行に支障をきたすレベルで個々具体を欠いてる状態の間に位置してるはずです。


ところで、自己の個別性についての理解も仮説に過ぎないわけですが、この仮説の確からしさを上限化させようと思うと、
上で言う無数の具体をカバーできてる状態からの乖離の意味での、量(検証結果に相当する個々具体)の有限化に修正余地なさを持たせ、
(精度の低い実験の結果をフィードバックするとむしろ改悪になるので)質を上限化させるべく、具体化条件(場で問われてるもの)の取り違えを抑える必要があり、

この試み(無限性とも見なせる、より確からしいものが取って代わる運動性への阻害最小化を、仮説を持つ事に対する論点とした実践)は、
個別性の疑似化部分を自己が存在するのと引き換えであるかのように扱うのを防ぐものである以上、
自他がいらぬ限定を負わせる負わされるのを望まないという問題意識と整合的です。

逆に、仮説検証の側面を欠いてる仮説形成能力を内容とする主観性なり現在性なりに、
純度の高さを見てるかのような言動(先のアウトソーシング状況の大した理由のないバージョンへの志向)を、
疑似問題(疑似哲学)と見なさない空間があったなら、それは上の問題意識を持たない空間

(対象に関して持ってる抽象具体関係構造の像を理解や実力として認めると、
問題状態についての具体形パターン網羅のいらぬ限定性から、対問題に関するそれらの不足が言える空間)と言えます。



というか、理想現実関係を、抽象化具体化の不十分さ解消(限定を受けてない状態の準備、引き受けざるを得ない限定条件の割り出し、これらの上限化枠組み)の対象として捉えてない知性倫理美意識、
言い換えると、プラトン(理想現実関係の指摘)以降、現在に至るまでの哲学領域からガリレオ以降の理系領域を取り除いた部分は、その空間に含まれてる

(哲学が、問題状態についての抽象度不足を大した理由なく持つならばそれは、個々の問題と井の中の蛙的にしか接する事ができないだけでなく、
ガリレオ以降の数学と自然との間の関係における抽象側、つまり、切り出される側である数学の通用領域を大した理由なく狭めるに等しいだろうに)と見なす事ができるので、

代替不可能な内外事情にしか応じない実存方針(量の有限化に修正余地なさを持たせるものであり、次の後者捨象が必要)、
および、局面と着目無視の合致が、個別性を根拠としない局面での同種の他との差異要素捨象の引き受け、
個別性を根拠とする局面での同種の他との共通要素捨象の引き受けまで含んでる具体化精度確保、


これらの採用は、既存の哲学(これをベースにしてるが故に、負わせるに値しないものを負わせてくるその有り様に対し、
着せ替えで見えにくくする事ができるだけの世界)との決別の証拠でもあるはずです。
(実際、近代性をガリレオデカルトにおける分離の成功体験によって強化された、前者捨象の領域侵犯と後者捨象の不在から成るパラダイムと解せば、

例えば、リベラルとリバタリアンの関係や、グローバルとローカルの関係を上下論に矮小化し、
不当合理と過剰特殊のどちらかを押し付けてくる知性倫理美意識、もちろん上下論構造を不当合理と見なして過剰特殊保障に持ち込むケースも込みのこれらと解せば、

文系事象に対する肯定否定の内容を、同種の他との共通要素捨象を用いた抽象化具体化の十分不十分へと更新する上の採用は、近代性との決別を果たしてる形ですし、

現代が近代の乗り越えに失敗してる原因を、主流の3つの哲学がヘーゲルの問題点を抽象重視と見立てて、具体重視に反転させた点にあると解せば、
抽象具体の上下論という表層形反転に解決を見る発想でなく、抽象具体の対等性の下での抽象化具体化の不十分さという内実に問題状態を見る発想に与し、
対ヘーゲルも先に見た質問題となる上の採用は、この観点でも決別が言えると考えます。)



状況上の自然な振る舞いから見た過大反応と過小反応の同時否定であれば、小学生でもそれによって得られる囚われていなさを、
対人方針(平等方針)や対自己方針(自由方針)、競争協調に振り回されない為の指針とする事が十分可能な以上は、

上の決別(場の疑似でない個別性に即した割り振りへの支持的態度の意味でのフェア、
局面と着目無視の合致にとっての実質だろうこれの獲得)は義務教育期から始まってると言えて、

他方で、理解力を表層整合に特化させ、場(内在場込み)の疑似でない個別性からの乖離を問題状態に含めてない、
問題状態についての抽象度不足の下での対象理解に留まらせる既存の教育(近代性を背景に持つ)は、


上の決別を潰してる形である為、上の意味でのフェアに立脚してる言動よりも、既存の教育と整合的な文系権威の言動
(特に、個別性が根拠になる局面で同種の他との共通要素捨象を機能させられない、

当然、ドーピングによる金メダルのような茶番まである、場の疑似でない個別性と場の上に立ち上がってる秩序との間の不整合など、
その捨象用いた抽象化具体化について不十分な状態にあるものを修正し切れないのに満足してしまう知性倫理美意識、

という観点から欧米文系の産物を捉え直す事のできてないこれ)の方が支持され続ける限り、いらぬ限定を強いられる世界は終わらないと解しましょう。



眠ってる時に見る夢には自我(内在的問題解決スタイル)による縛りが緩んでる等の違いが確かにあるのでしょうが、
現実だろうと夢だろうと水槽脳だろうと、通用してる領域の広狭と確からしさとの相関を踏まえてより確からしいものを選ぶ、という形からは逃れられないのではないかと、

そうだとすると、そうした差異に大騒ぎ(過大反応)するのは論点ズレの証拠で、
論点は、この相関をある観点の下に持ち出す際の観点設定自体にもこの相関を機能させてる程度
(この結果のフィードバックの産物として自我を含む無意識も評価される対象)になるのでないかと思います。

そして、この論点ズレの原因は、デカルトが方法的懐疑においてこの相関に依拠しておきながら、
主観の内実確からしさ(自我の肥大化問題も包含する、認識場におけるフェア問題)については検討対象にしなかった、つまり、表層次元に話を限定した中途半端さにあるでしょうから、

デカルトのこの中途半端さの弊害としてより害のある次の問題を押さえた再位置づけ
(この仮説では通用してない領域、という意味合いの付加)をデカルトに対して試みる事で、同時解消してしまいましょう。


内実の確からしい主観と内実の確からしくない主観を区別せずに取り扱うのは、悪貨良貨問題を通して主観の意義を不当に切り下げ、
同種の他との差異要素捨象を主観に対して展開したに過ぎない客観を、個別性が根拠にならない局面に限定せず、個別性が根拠になる局面にも呼び込む領域侵犯(不当合理)の原因になるし、

表層形が同じなら内実は気にしない、という呼び込んだ処理センスに対する修正も、
内実が確からしいなら表層形は気にしないという方向(妥当な損失は引き受けるので、ご都合主義的ではない表層形開放による対宿命性や対偶然性)でなく、

内実に関係なく表層形の多様性を訴える過剰特殊(存在するのと引き換えとは言えない要素を存在に帰属させてる帰属操作であり、
存在性を先立たせてない証拠なので、表現の観点では直接足を引っ張るものと見なせる)方向に向かってしまう
(上の文脈で言うと、内在場でのフェアの欠乏故に肥大化してる自我に対する、割り引きへの拒否反応でしかなくなる)。

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欧米文系からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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