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3756文字、自他の差異はどう取り扱われるべきで、どんな人間関係や対人が目指されるべきかについて

2024-12-003

自己の世界理解が持ってる偏り(有限者性の反映)と他者のそれについて、遠近のみを問題にする立場(遠近のどちらを標準とするかによらず、
標準的かどうかでの判断込み)は、文化間や世代間といった通念的な分断と整合的ですが、

表層形の間の距離でなく、安易な理想現実関係を拒んできた(限定を受けてない状態、および、それが引き受けざるを得ない限定条件、この両割り出しの上限化を志向してきた、
言い換えると、変化不変化を抽象化具体化の交互反復とした上で、抽象化具体化の不十分さが解消されてる時のそれら以外も込みで肯定するのも、その時のそれら込みで否定するのも拒んできた)結果に生じてる偏り

(修正余地がなくこれ以上を求めるのは疑似問題となる、という意味で受容に値する状態にまで持っていった偏り、
当然、負わせても負わされても良い有限者性であるこれ)であるかないかで分断し、

分断された後者側に対しても前者側となるよう働きかける立場に移行するならば、
内実と無関係に表層形のみをもって断罪する内容の閉鎖性から、内実確からしさが上限である時の反映でありさえすればどんな表層形も肯定する内容
(表層形のみが問題になる局面であれば、表層形のみに着目するという表層形も内実が確からしいので肯定される)の開放性へと、他者問題は修正されるはずです。


(井の中の蛙性を可能なだけ緩和しにいく前者と、場が価値を決めると認めつつも場の性質の取り違えを可能なだけ抑えにいく後者で構成されてる上の上限化から見ると、
場の秩序が成立してるだけで満足するのは内実不問であり、世界を表層次元に限定する矮小化です。

もちろん、規範の類を根拠がないとして退け、その先に本来の姿があるかのように解してる言動も、
場の本質を場全体に行き渡らせる為のものである場合に限って規範の類も肯定されると解し、

対秩序の論点はあくまで、個別性捨象の下で整合が展開される理系とは違い文系では、取り違えられた個別性が整合の根拠にされ得る事実を踏まえた、
管理者とプレーヤーの一方が他方に対し、場の本質を損なってる場合に働きかける修正に関する理想現実関係にあり、
現実を理想が置かれる場としつつ、この関係の排安易をもって秩序は肯定されるとする立場から見ると、


言い換えるなら、具体形パターン網羅のみでは具体化精度の低いものまでフィードバックする抽象次元改悪を含んでしまい、井の中の蛙性緩和が上限化されない為、
場の取り違えを最小化させた個別性に即してない優勢劣勢有り様や損得や明晰曖昧割合を肯定した途端に実質を欠く事になるせいで、
同種の他との共通要素捨象を育てない既存教育と整合的な人には形骸的にしか持てないところの、場の本質への志向という具体化精度確保を、

常に通用領域が最大であるより確からしいものが取って代わる運動性と整合的な意味での真善美を保障し、それらに実質を与えるものとして、
補完する必要があると認めてるという意味で、内実次元も含めて通用領域を最大化する立場から見ると、


世界を表層次元に限った上で被限定を拒否してる形であるが故に中途半端な通用領域拡大であり、
また、内在場も外在場も場の個々具体として扱った上で、今この瞬間はどの場に着目するべきかや、
個々の個別性が取り違えられてないかか問われる展開を潰す内在場外在場上下論に閉じこもってる形であるが故に抽象不足であり、

さらには、通用してる領域の広狭と確からしさとの相関を表層次元には徹底適用しておきながら、何の差異に関してこの相関を持ち出すかという観点設定に対しては適用せず、
観点という場が実際に持ってる偏りに、その場がその場である限り持たざるを得ない、という上限的確からしさを持たせる事なく、

したがって、意識という注力的問題解決における限定有り様にも響く、局面と着目無視の不一致をはじめとする価値基準の過不足問題を保存したまま、
話を終わらせてしまったデカルトの中途半端さの繰り返しであるが故に、時間経過が質向上へと繋がってない事例に他なりません。)



それこそ、一つの言葉だけ見ても、その言葉が具体となるケースの全体、および、抽象となるケースの全体として想定されるもの(文脈を具体化条件として切り出す処理の対象)は、
人によって異なる(発信したい内容とそれを託す言葉等とのズレが許容範囲かどうかの判断にも違いが出る)わけですが、
文系事象の場合で言うと、個別性の取り違えを抑える処理である同種の他との共通要素捨象を用いた抽象化具体化の不十分さの解消を、


代替不可能な内外事情にしか応じない実存への志向(存在するのと引き換えでない要素を存在に帰属させる帰属操作の拒否故に存在解放であり、
理想を割り引く程度を最小にしつつ成り立せてる現実の体現要求故に具体化精度確保の上限に相当し、
外在場が持たざるを得ない偏りの反映と言える優勢劣勢有り様や損得や明晰曖昧割合は受容する用意がある状態)、

ひいては、真意も真意に対する加工(の結果である発信したいもの)も、肥大化してない自我(内在的な問題解決スタイル)や引き受けざるを得ない文化(外在的な問題解決スタイル)の反映に抑える処理
(もちろんこの場合、肥大化してない部分やいらぬ特化ではない部分まで捨てる過剰否定展開も避ける対象となるわけですが、

いらぬ対立やいらぬ分散をはじめ、統合によって捨象されるはずのものを残してる事態の弊害がその種の展開と言える諸々、
例えば、主体放棄系や言語放棄系のアプローチには、あるいは、自我や文化を取り換え可能なものとして扱う態度には付きまとってると想像します)もそこに含めつつ、


論点とする(例えば、上の実存を生きてないのに自分が自分である限りこうならざるを得ないという感覚を踏まえて振る舞ってる有り様に対し、
論理飛躍を覚えない事実をもって、対テキストに限らずぬるい対文系の下で知性倫理美意識を培ってきた証拠とし、

その人の知性倫理美意識に対しては、権威の付され具合によらず形骸扱いする、正確には、文系事象を修正余地がない、
したがって、それ以上を求めるのは疑似問題になるという意味で受容に値する状態へと持っていく働きの欠如扱いする)事によって可能となる方向性をこうした差異への反応に持たせるべきです。

(ここに出てくる論理飛躍は内実次元で生じてる為、極端な例で言えば、主語と述語が整合してるからこの文章は受容に値すると判断したといった、
表層的整合性にのみ着目する理解枠組みに留まっていては取り逃がしてしまいます。


また、有限性の登場理由として無限性を想定する事も可能とはいえ、有と無の差異も、所与であるかないかの差異も、というか差異自体からして有限性の産物である以上、
所与なのは有限性であって、しかし、有限性有り様がこの所与性と整合的なレベルで受容に値するのは、

より確からしいものが取って代わる運動性の受容阻害が最小である為に修正余地がないと言える状態にまで持っていってる場合のみなので、
個別性が根拠になる局面でもこの受容阻害具合の話である内実次元に踏み込まないでいる人は、
受容に値しないものを受容に値するものとして扱ってる可能性を持ち続けてしまいます。

そして、この点を踏まえて内実次元に踏み込む必要性を押さえるのは、個別性が根拠になるならないの境界線の保障に実質を持たせるのが可能となる事情で、
対近代での他者問題における、個別性が根拠にならない局面の処理感覚を個別性が根拠になる局面に持ち込む近代人的領域侵犯に対し、

領域侵犯の向きを逆転させる反動反発をもって問題解決を図る勢力、および、劣勢ポジションに対する救済をこの反動反発の中身である、
自我や文化の内実不問な保障と結びつける発想に頼らないで済む立場に繋がります。)


つまりは、人によって異なるという事実を踏まえる(現実との齟齬を回避する)だけでなく、
差異の受容が事実上の何でもあり(存在にかこつけた搾取込み)となるのも防ぐ方向性、
安易でない理想現実関係(現実軽視の絶対主義傾向と理想軽視の相対主義傾向の同時捨象)であるこれを目指すべきで、

これが目指されてない人間関係や対人は、負うに値しないものを負わせてるのにもかかわらず
(性別問題で言うなら、出産後の幼体成体関係まで含めた人間という種の性別システムの産物である諸々、例えば、自己価値に関する問題意識におけるこのシステムに由来する部分と、

自我の肥大化や文化へのいらぬ特化を可能なだけ抑えながら付き合ってる場合と実際有り様との間にズレが、
例えば、存在前も込みな対幼体において不可避でないものまで負わせてるという形でこれが、生じてるのにもかかわらず)解決状態と見なしてるも同然であり、
対資本主義で言うところの、市場を丸ごと否定する実態軽視か、市場をそのまま肯定する内実不問な実態重視の二択に話を矮小化してるパターン

(内実が確からしくないという意味での安易な成立は余裕がない局面でのみ正当化されるとの理解、
および、それを踏まえた安易でない理想現実関係への志向を既存秩序に浸透させ、大した理由のない安易な成立をまず減らしにいく、という方向性も当然埋没させる点で有害なこれ)に相当すると考えます。

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欧米文系からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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