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3689文字、他者性を謳いながら搾取を正当化してる等、真に受けてはいけない哲学やその産物、および、それらとの付き合い方について

2024-12-002

存在してるというだけで、内在性質と外在性質の統合という事態が生じてます。
(置かれてる場に自身を通用させ続ける、という存在課題をこなした結果が存在現象であって、
場に特化するほど存在成立が安定的となる反面、特定の外在性質との一蓮托生状態に近づきます。

つまり、対外在については政治で言うところの、秩序を維持する側が秩序を破壊する側を駆逐すれば秩序を存続できるという話が内部闘争込みであるのではなく、
特化の過不足がない状態と整合的な獲得喪失有り様を達成すべく、特化の過不足を縮減するに際して、
特化の過剰を修正する場合には秩序を維持する側が、特化の不足を修正する場合には秩序を破壊する側が邪魔になるという話があると解するべきで、

この縮減が果たされてるなら内在性質と目されてるもの、漠然とした印象といったレベルも含めたこれにとっては具体化精度が最大なので、
言わば、仮説改善を上限化する検証情報をフィードバックする形になるわけです。)



文系事象に対しこの統合に含まれてる両性質(個別性)の取り違え(内外境界を意味する有限性が、
より確からしいものが取って代わる運動性の受容阻害の最小化に失敗してる結果の、現象が両性質の除去可能な確からしくない部分にまで帰属してる事態)を修正余地として扱ってない哲学

(抽象化具体化の不十分さの下での交互反復によって達成されてる同一性や変化性を、あるいは、歴史展開や論理展開を修正余地のあるものとして扱っていない哲学、
理系がガリレオ以降、同種の他との差異要素捨象を用いた抽象化具体化の不十分さ解消を展開してるのに、同種の他との共通要素捨象を用いた同展開の不在に対して疑問が持たれてない現れであるこれ)は、

存在を肯定した途端に、存在するのと引き換えでない要素を存在に帰属させてる帰属操作が、
ひいては、存在尊重(自己や他者や世界に対する尊重)にかこつけた搾取(帰属操作の押し通し)が正当化されてしまう為、どんな権威が付されていようと真に受けてはいけません。



逆に、修正余地として扱ってる場合の哲学は、代替不可能な内外事情にしか応じない実存
(存在するのと引き換えでない要素が存在に、例えば、自分が自分である限りこうならざるを得ないといった感覚に、帰属するのを防ぐ姿勢)への志向や、
場(内在場外在場)の本質への志向(場に合わせる合わさないの表層形反転二択、

場の本質への志向を伴わないなら二項対立への批判も、二項対立という表層形に対する表層形反転に過ぎず、
あるいは、フェアを越えてまで自他を助けない際の未解決状態に限定してないなら不安定の肯定も、安定不安定の表層形二択化に過ぎず、

表層次元に留まってる問題解決観の産物であり、表層をなめすだけの洗練や現象学系の対場に代表される表層の汚れをぬぐうだけの実態露呈は、
内実確からしさの最大化という方向性を埋没させてるなら先の搾取正当化と変わらない、そう解すべきこれを捨象する具体化精度確保)と整合的です。

(ちなみに、具体化精度確保に対する阻害は、改善フィードバックの上限化に対する、
ひいては、より確からしいものが取って代わる運動性と整合的な意味での真善美に対する阻害なので、知性倫理美意識の権威も具体化精度確保を先立たせてないなら、

形骸であり、理性を取り違えが最小化された局面事情に合わせる能力として用いないせいで、
次元設定自在性としての人間性を生かし切れてないばかりか、振り回されてる事態の方と整合的であるのに影響力を振るってきたと解しましょう。


また、理想を割り引く程度を最小にしつつ成り立せてる現実は具体化精度が最大ですが、
余裕がある局面で安易な成立を許容するのも、余裕がない局面で安易な成立を許容しないのも具体化精度確保の失敗ですし、

もちろん、2+3=5を捉えるのでも背景として持ってる数学世界の通用領域が広いほど理解の浅さに繋がる井の中の蛙性は緩和されるわけで、
理想として想定してるものから混入してる限定要素を少しでも多く取り除けるに越した事ありません。

また、ハイデガーによって有と無の両極保有状態が提示されてからそこそこ経ってるのに、
有や無に対する、あるいは、獲得喪失有り様に対する事実上の内実不問をその修正点としなかったせいで未だに、
両極保有状態の露呈や実践で満足してしまう人が権威者にもいるのだと想像しますが、

この意味で哲学の質がハイデガーで止まってしまってる原因は、内実不問を問題状態として捉える事ができず、表層がより確からしいものになれば解決と見なすパラダイムであり、
通用してる領域の広狭と確からしさとの相関を表層次元に対しては徹底適用しておきながら、
何の差異に関してこの相関を持ち出すかという観点設定に対しては適用しなかったデカルトの中途半端さにまで遡ると考えます。)



したがって、例えば、ある問題を持っているという事態(主語の切り出しに相当)は、後者哲学においては、
限定されてない状態に遡り、引き受けざるを得ない限定条件を割り出した上で付し直した結果
(修正余地の集積全体を問題状態についての抽象物とした時の具体化条件が、修正余地がないとの意味で受容に値する有限性有り様と言える上の実存である時)とのズレが修正余地となるはずなので、

このズレ具合が反映されてない評価を自他の問題意識に対して下してたならそれは、真に受けるに値しない哲学である証拠となります。
(ズレてない問題が受けてる扱い、述語の切り出しに相当するこれについても同じなので、
解決状態や目的地との距離を含む現在有り様を、あるいは、標準的なルートを通っているいないを、上の実存と無関係に肯定否定してたら同証拠になります。

ちなみに、自他に関する情報をどれだけ集めても、対象が代替不可能な内外事情にしか応じない実存を生きてないなら、表層の汚れをぬぐった実態露呈に近づけるだけなので、
自身が存在するのと引き換えでない要素まで存在に帰属させる帰属操作をその人が拒んでる場合の像と実態とのズレ込みで、

例えば、その人が認識する際に認識対象を置く場が持ってる偏り、当然、対象に関して構築した抽象具体関係構造の像である理解も帯びる事になるこれにおける、
場が持たざるを得ない、言い換えるなら、有限の与件性にのみ帰属がある偏りと実際に持ってる偏りとのズレ込みで、
根拠にする内容の実態重視な存在尊重を避けるべく、対象がその実存を生きてないという点を押さえる必要があります。

この問題の主体集積バージョンを市場や民主制は抱えてる為、これらをそのまま肯定する実態重視と丸ごと否定する実態軽視から成る表層形反転二択は、
存在にかこつけた搾取か現実との齟齬、共に負うに値しないどちらかを負わされる有害な枠組みと言えます。)



また、例えば、場Aと場Bで問われてる差異が重なってないなら、一方の価値付け結果は他方の価値付け結果と関係ないわけで、
場の本質への志向(主体や作品がどの属性について着目を受けるかは場次第とするなど、場が価値を決めるとする態度から成る絶対化対策、
かつ、場の性質の取り違えを修正余地とし、他の場の性質の越境に等しいとする態度から成る短絡な相対化対策)は、

この断絶を保障(価値付けの越境を阻止)しますから、ある対象がある場で受けた価値付けへの過剰反応を抑える内容(局面と着目無視の合致)が存在尊重に含まれてなかったり、
その志向は、場が持たざるを得ない偏りの反映である優勢劣勢有り様への志向でもありますから、

修正余地がないという意味で受容に値するこの偏りの反映でない部分込みで優勢劣勢有り様を肯定
(内在的問題解決スタイルである自我や外在的問題解決スタイルである文化への丸ごとの、つまりは、過剰な特化を引き起こすフィードバック込み)してたり、
反映である部分込みで優勢劣勢有り様を否定(救済や離脱や対権力も込み)してたら、真に受けるに値しない哲学である証拠となります。



存在を尊重する(林檎を数えられないのに蜜柑はできてるつもり的勘違いを避けるべく、自己存在の尊重を抽象化する)なら、
有限性有り様に修正余地なさを持たせたものでもある、代替不可能な内外事情にしか応じない実存を生きてる人(同主体像を紡いでる国)の振る舞いは表層形によらず肯定されるけれど、

置かれてる社会から具体的にどういう扱いを受けるかは別問題であって、社会が代替不可能な内外事情にしか応じない主体像だけから成ってる時
(の社会の性質が社会全体に行き渡るように秩序が立ち上がってる場合に生じてる整合作用、つまり)、受ける扱いは表層形によらず肯定されるので、

すべて主体をその主体像にする働きかけが上限(これ以上を求めると修正余地のないものをあるものと見なす疑似問題となる地点であり、
理想を割り引く程度を最小にしつつ成り立せてる現実)である時にやっと、世界は受容に値する(自己存在の尊重とも整合する)、
この理解とのズレ部分まで内面化しないよう精神的に距離を取りながら、既存の哲学やその産物と付き合いましょう。

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欧米文系の権威性からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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