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世界を近代(分離で満足するセンス)に閉じ込めるものとして、哲学等が持ち出されてる(検討が帰属の修正に繋がらない)現状について

2021-5-002

対絶対主義について相対主義で事足りるという感覚を、近代性は修正してくれないし、むしろ(表層反転での解決を)強化してるとさえ言えるわけで、

実際、己の非を認めず改めない事も、局面に合わさなかったり局面の性質変動を論点にしない事も、可能な相対主義よりも、
より確からしいもの(通用領域の広いもの)が取って代わる運動性への阻害を最大限抑える枠組みの方が、
謙虚(絶対主義的有り様から離れてる)と言えるはずですから、

前者を本筋とはせずに、良くて次善の策扱いに留めるべきでしょう。


議論や思考に際してより確からしいものへの移行を阻害しない態度、及び、文系域での具体化条件付し直し(内在外在関係含む、限定前後の通用量保存)の能力
(通用が行き渡っているいないの判定精度に関わるのに、近代性の下ではその捨象観故に育たない)を育成しない点は、これまでの教育の欠陥でしょうし、

そんな教育の影響を大きく受けた者の哲学行為では近代性に疑問を持たない可能性が高い為に、その一現れとして、

哲学(対近代性含む、パラダイムへの検討)による事態改善
(表層形を論点にして諸々が割り振られてる秩序から、通用が行き渡ってる内実の反映形としての秩序に持ってく、帰属の修正)も基本的には難しいという状況もあるのでしょう。


(不当な扱い受けるのを望まない対象を、自己絡み限定からスタートして、概念観念含む、場に置かれるという形になり得るもの全てにカバー領域を広げてくと、

負わせる負わされる関係を、各場の固有性の発現保障の反映形に限ってる秩序、
例えば、都合悪さの受容の、自他における過不足が、その反映形からの乖離具合を基準に判断される秩序が、
望む姿となる、

そう認めるなら、上の意味での帰属修正は、秩序に反映されてるそこのカバー領域の広狭という内実差異の問題、
つまり、通用領域の広狭で日々、対象の確からしさを判定してるのに、対秩序においてそれが機能しない事もあるという問題であって、

林檎は数えられるけど蜜柑はできない状態で、数を数えるが十全にできてると思ってる的な内容の個別性尊重でも、既存体系に合わさない十分な理由になるとしてるなどの、

内実の確からしさ差異への視点を持たない類の哲学では、その問題は検討の対象にならない以上、
その方面には対応できない方向に哲学の可能性を潰してると言える状況。)



なので、帰属の修正とはもはや言えない分離(分離解放の成功体験バイアスとしての近代性)に関して、
妄信か反動反発(表層反転)の二択しかないかのように誘導し、世界を近代に閉じ込めるものとして哲学等が持ち出されてる現状に、

つまり、負う筋合いのないものを妄信によってか反動反発によって(権威を用いるなどして)負わせてくる外界に、

振り回されないよう
(妄信や反動反発の対環境バージョンでの現れとなるのを避けるべく、
環境が悪いなら悪いなりの上限で踏みとどまれるよう、また、帰属が修正されてる環境像からのズレ部分のみを否定対象としてる形になるよう)、


例えば、無意識と意識の関係を、
(表層反転での解決をはじめ、一方に軸足置く近代性枠組みには組みさずに、もし一方に置いてしまう認識の癖があるならその癖と決別し、)
限定前後の通用量保存の枠組みでもって、

言い換えると、
抽象化の精度と具体化の精度の最大化だけを求めてる
(歴史性を、抽象と具体の必要価値対等性も同時に要請する、抽象化と具体化の繰り返しから成ってるとした上で、
次元設定自在性という人間性を背景にその繰り返しが展開される事情から必要となる、その自在性を振り回されずに使いこなせてると言えるだけの通用性獲得も組み込んだ)
枠組みでもって捉え直す、


さらには、その枠組みで捉え直されてないもの
(特に、最大限代替不可能化させた内在事情外在事情が具体化条件になっているいない、という内実差異を論点にしてない、故に表層形で断罪したり擁護してる内容の対象評価や言動)に対して、
取って代わられるべき限定通用物扱いという扱い差を、帰属の修正としてつけていく必要があると考えます。




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