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2982文字、実社会や文系学問世界に送り出すまでに、子どもに持たせるべき能力(現状、大学受験とは関係ないそれ)について

2023-10-004

理解に関する話で重要なのはその有害性から、不当合理と過剰特殊の二択地平のせいで、
例えば、平和概念や正義概念をその二択から成る枠組みへと矮小化させたまま、具体的な文系事象に反応してしまう、という問題であると考えます。

自然現象を数学によって説明しだして以降の理系的現象の理解はまず、数学を踏まえて作ったモデルが、
理解対象となる現象の原理と言えるだけの通用性を持ってるかどうか(仮説に修正余地があるかどうか)の話になるはずです
(運動方程式が間違ってはいなくても捉え直されたように、全体枠の拡大に伴う捉え直しは常にあり得る)。


同じ事は、Aさんはこういう人のようだ等のちょっとした印象(それでも、内在的問題解決スタイルである自我と外在的問題解決スタイルである文化との、
統合有り様の把握まであり得る)の獲得であれ、仮説として立てた個別性についても言えるのに、
個別性が根拠になる局面で個別性を捨象してしまう不当な合理化、存在するのと引き換えとは言えない要素込みで根拠にしてしまう過剰な特殊性、

この二つしか対文系事象での選択肢を持ってない知性倫理美意識が、仮説として立てた個別性は同種の他との共通要素の捨象にその時点で可能なだけさらされてるのか、という観点の不在事態を引き起こす

(新たな同種の他の登場に伴い、それを取り込んだ形に改めた抽象次元の下で個々具体を捉え直す作業も、
同種の他との共通要素捨象を軽視してる既存の文系空間では、具体化や抽象化が不十分となるので、個別性に関しては必ずしも位置づけの改善を意味しない、
この問題が、言葉というものの性質上、自然言語を用いた対象理解のレベルで生じてる)為、


不当合理と過剰特殊の二択地平な人は、対象がこの二択に縛られているいないの観点を持てない
(例えば、カントへの言及に対し、カントについても言及者についても持てない)だけでなく、
自身に可能な対象理解の上限(現時点でのこれの反映である不理解、および、反映同士から成るコミュニケーション不全は受容せざるを得ない)に至れない状態にある

(特に、自身の個別性がさらされてない結果の過剰特殊状態の分だけ、真善美に対する割り引きを、自身の持たざるを得ない有限性の反映のみに抑える事に失敗していて、
この失敗は、対象が理解できないという事態における、対象の責任にはできない部分に相当する)のだと解しましょう。


また、原理抽出を含む帰属修正に関するいらぬ限界が、対文系事象で生じてるのならそれは、
帰属操作の最小化と平和概念なり正義概念なりとを結び付けられない有り様を意味していて、

という事は、帰属操作を許す形でしかそれら概念と付き合えない、という有り様から脱するのに、
不当合理への批判にかこつけた過剰特殊の押し通し、あるいは、その逆の形をしてるロジックを見逃す事なく、
知性倫理美意識の機能不全の証拠とする(そのロジックから成る主張には取り合わない)能力は必須であって、


その意味での機能不全物に塗れてる実社会や文系学問空間へと送り出すまでに、子どもにそれを持たせ、表層次元に留まってる主張に丸め込まれずに済む
(内実の確からしくないものを確からしいものかのように扱わせる余地を、潰してない分だけ有害であるもののまき散らしに加担せずに済む)状態へ導くに越した事はないと認めましょう。


(塗れてるのは、近代科学の圧倒的成功と、デカルトの中途半端さに対する未修正、これらの影響と思われるので、
要請されてる捨象の対象が文理で、つまりは、個別性を根拠にする局面しない局面で真逆である点、

宗教からの個人の精神の分離は、通用してる領域の広狭と確からしさとの相関に依拠しておきながらそれを始点とはしなかった為に、少なくとも、対峙者の内実にその相関を見ない為に、

その人の有限性形態の内、持たざる得ないだけの確からしさを備えてない部分の分だけ生じてる対峙に際する過剰割り引きを、許す分離の仕方であるせいで事実上、
先の失敗を対真善美として見た時の対無限者が先にある状況において、対真善美へと問題を差し替えたに過ぎない点、

これらを押さえる事で近代科学やデカルトの過剰権威部分に応じない、したがって、先の二択縛りを強化してる近代性からの脱却を果たしてると言える人を増やしていきましょう。)



注1

例えば、昨日の夜に何を食べたかという自問に対する応答も、問いへの反応を修正余地がない状態(その時点での解決状態)へと持っていく処理であって、
ここでの修正余地のなさとは、局面に合わせた具体化精度の上限化に思われるので、

曖昧明晰程度や主観客観割合、押さえるべき必要な条件(問いを無視して連想を展開するなど)が、局面とは関係なく決まってると考える必要はないように思います。


つまり、局面によって限定される前後における抽象化具体化の不十分さ除去が論点であると推測するとして、
近代性(本文で言う二択も、絶対主義相対主義の関係も、場に合わさない合わせるの表層形反転二択と見なせる)は、

例えば、場(認識場込み)の上に立ち上がってるものの解像度を上げるといった、表層の汚れを拭うだけの単なる実態露呈に焦点を誘導する、
例えば、選抜有り様は観点次第であるにせよ、観点設定と整合させる局面把握への、通用してる領域の広狭と確からしさとの相関の適用を先立たせてれば生じない、都合の良い観点の押しつけ合戦に終始するなど、

場の疑似でない個別性に合わせる能力を損なう(この意味で、修正余地ないという受容に値する状態へと持ってく働きに対するいらぬ限界を知性倫理美意識に与えた結果の産物、
例えば、近代性による成形によって矮小化させられてる文系学問を、有り難がらせてきた)為、

自身の記憶との付き合い方すら、修正余地のなさを偽装するよう強いてると言えるように思います。


また、自問への応え具合に関する修正余地の有無を局面との整合の観点から見ない枠組みは、
表面上コミュニケーションが成立してるように見えるケース、見えないケースについても同じ事が言えるでしょうから、

近代性の外に出てない人(不当合理への批判にかこつけた過剰特殊の押し通しロジック一辺倒であるなど、出てなくても文系権威になれる為、文系権威の有無は質的差異を意味しない)が、
コミュニケーション不全事態に対し平和概念や正義概念を持ち出した場合、そこには冤罪の側面が含まれてしまうはずです。


注2

神を無限者として捉える場合、神を有と無の差異(有と無の間に内外境界線が生じてる以上、有限性)が前提の枠組みに置こうとする時点で、対象への限定作用の発生を意味する為、
限定せざるを得ないだけの理由がなければ過剰割り引きですから、神の存在証明の試みは、

信仰者の立場、かつ、代替不可能な内外事情にしか応じない実存である事(振る舞いに修正余地なさを持たせる処理)を先立たせてない、
これが言える時、信仰の形骸化(対無限者での過剰割り引き)を意味してしまいます。

(本文で言う失敗が、対象を理解できない際の自身の責任部分であるという話は、
真善美との距離の最小状態を偽装する事が、その責任部分の対象への擦り付けに繋がる事態を示唆してるとすると、
神との距離の最小状態偽装では、擦り付けの責任が最終的に神に帰されてる形であるように思われます。)

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欧米文系からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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