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2747文字、同じ轍を踏まないよう、仏教的アプローチに接する前に押さえる必要があると思われる点について

2023-4-006

現象学における実態主義の側面を押さえてないせいで、仏教的アプローチも実態主義に留まってしまうという事態
(そもそも、同種の他との共通要素捨象が機能してない状態で為される露呈作業は、表層の汚れを拭うだけに留まる為、
拭い方が西洋的であれ東洋的であれ内実の確からしさ程度についての情報を付さないという意味で、中身のない情報の拡散)を、
日本のここ百年の哲学におけるある種の系譜は示してると疑いますが、これも次の弊害と見なせるように思います。


例えば、方法的懐疑はその実態主義的性格をもって、主観なり自我なりの内実不問
(それらが代替不可能な内外事情にしか応じない実存の帰結でなくとも許容される事態)を引き起こし、
近代科学の成功は、個別性が根拠になる局面への個別性捨象の持ち込み(不当合理事態への誘導)圧力を常態化させてきた。


こうした実態主義や不当合理は、
割り振りや形式(限定規定なので着目無視設定含む)が場の疑似でない個別性に即してる状態からの乖離具合(具体化精度)や、
同種の他との共通要素捨象を用いた抽象化具体化の交互反復として歴史や文系論理が紡がれてる状態からの乖離具合などの、
内実の確からしさ程度に関する情報を付さない点で中身のないものしか齎せない枠組みであるのに、

未だ権威を持ち得る(権威が対象の個別性に関する、対象が存在するのと引き換えと言える状態にまで持っていっているいないの差異について隠蔽する働きを、個別性が根拠になる局面でする)し、

一方の批判にかこつけて他方を押し通す(例えば、全体主義やグローバリズムへの批判が、
後者的まとめ上げから前者的個々尊重への振り替えに過ぎないなど)という形で、
文系の地平が欧米であれ未だに閉じてる(近代始点では次善の策であったパラダイムが未だ居座り続けてる)。



なので、同じ轍を対囚われにおいて踏まないよう、次の解釈をまず踏まえましょう。


フェアを越えてまで自他を助けない姿勢(場の疑似でない個別性に即した有り振りへの支持を通じた具体化精度確保)は、
精度の高い検証結果をもって仮説が検討される機会保障と同じ構造を、自他の抽象次元(無意識や欲望の有り様込み)に齎すので、

ある意味、解放支援と見なせる上、フェア志向を含む先の実存からの乖離把握の推奨は、
疑似問題に付き合わされる(負わされるに値しないものが発生する)のを防ぎにいってる形である。


ご都合主義的であるほど、割り引かれてない状態のものを取り出そうとしても(理想状態を想定しようとしても)、
帰属操作の側面が含まれてしまう分だけ加工後と言えるものを取り出す事になる(具体化前の段階を上手く準備できない)ので、

内外境界意味する有限の与件性、より確からしいものが取って代わる運動性、これらから成る(したがって、疑似でない)帰属修正余地なさ(個別性が根拠になる局面では、
同種の他との共通要素捨象を用いた抽象化具体化の不十分さ解消状態)への支持が、理想状態(例えば、真善美や無限者)について語る資格と言えて、


その支持の体現である先の実存(いらぬ特化による被限定への警戒を欠いてる既存教育における獲得観とは不整合であり、
通用領域の広狭と確からしさとの相関、という認識前提にいらぬ限定を与えない態度、例えば、正当化を矮小化させない態度でもあるそれ)に至ってない段階で語るのは、
疑似な理想状態を疑似でないものとして扱うよう自他に強いてる形(帰属操作強要)である。


先の実存(理想を割り引く程度を最小に抑える現実に相当するので、真善美からの距離自体の論点化を疑似問題と見なし、接近上限化を論点とする際のターゲット)には、
フェアを越えてまで自他を助けなくて良いという態度も含まれる(外在場の本質に即した役回りしか引き受けない)ので、

解決がされてないとかできない事態に対する反応に、フェア志向であれば捨象されてるはずのものが含まれてる、という疑似問題化から生を解放する作用がある。


局面と着目無視との一致(余裕のない局面では成立自体を、余裕のある局面では成立の内実確からしさを、重視する量質推移構造も内包)への志向には、
内実の確からしさ的には別物でも表層形が同じである事を利用して内実が確からしいものに偽装する、ドーピングによる金メダルパターンから、

したがって、形骸化(帰属操作に許容的なまま据え置かれてる)なり矮小化(非の有無を都合よく見せかける為の表層形操作に注ぎ込まれてる)なりから、知性や倫理や美意識の働きを解放する作用がある。

(例えば、局面と着目無視との一致のみへの肯定でない、不一致のみへの否定でない等、
ポジションや具体的有り様の割り振りについて場の疑似でない固有性に即してる状態、あるいは、自他の有り様について先の実存と整合してる状態から、

乖離してる部分以外込みで肯定する過剰肯定も、乖離してない部分込みで否定する過剰否定も、
この偽装に該当し、対自他や対社会、対世界における帰属修正の働きを阻害してきた。)



感情も選抜結果であるのに、フェア志向でない(選抜に精度を求めてこなかった)自分の覚えた感情が何らかの根拠として採用するに値するかのように振る舞う人

(より抽象的には、本文で言う実存を生きてきた結果のものでない個別性は、検証をできるのにしなかった仮説のごとく、中身のない根拠なり情報なりであるとの理解を欠いてるせいで、
自身の個別性を引き受ける、つまり、自身を存在させる事イコール先の偽装になる人)は無数にいる一方で、

文脈を取り違えてると意味を真逆に捉えてしまう事さえある等をもって、文脈把握の精度は重要との理解を踏まえた振る舞いをする人もいて、

これらが重なってるケース、つまり、具体化精度確保を軽視してる生を送りながら具体化精度確保を重視してるつもりなケースもある
(林檎を数えられないのに蜜柑は数えられてるつもり的事態は、数える処理の原理不在だけでなく、
原理抽出という帰属修正能力自体、ひいては、現象解釈の深浅への疑念をも意味するわけで、これがその人の対文系に言えるという話)のでしょうが、


フェア志向でない人が、文系事象(その中の理系的側面除く)に対する自分の理解力は高いと言ってるも同然な発信をしてたら、事実上の誇大広告な気がします
(問題と解決の関係に対し、有限性の代替不可能化を抽象状態、本文で言う実存をその具体化条件とする関係から成る、受容に値する状態への移行という原理をそこから取り出せない以上、

対象理解にこの原理が持たされているいないの観点でもって、自他の見せる理解処理を評価できてれば捨象してるはずの、
疑似問題疑似解決に囚われてる人、との位置づけからの乖離部分は、帰属修正余地と思うので)。

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欧米文系からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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