2917文字、いらぬ対立に付き合わされ続けてる現状を変える(近代の再生産を終わらせる)為に必要と思われる事について
2024-3-006
市場をそのまま肯定する立場と否定する立場は、需給事情が代替不可能な内外事情にしか応じない主体における個々事情から成ってる状態
(修正余地なさを持たせた都合しか負わせない負わされない、したがって、存在するのと引き換えでないものが存在にかこつけて通ってしまう事のない存在尊重空間)から見れば、
過剰肯定と過剰否定である為、対立させたところで疑似問題(帰属修正の対象取り違えであり、
実際、このいらぬ対立をもって肥大化してない実態の根拠化へと向かうルートは埋没させられてきた)です。
同様に、国民と国家権力を対立関係として捉える発想や枠組みも、代替不可能な内外事情にしか応じない実存だけから社会が成ってるならその社会の性質は疑似化しておらず、
場の疑似化してない個別性が場全体に行き渡ってる類の秩序の確保に対して場の管理者は責任を負う、
との理解から見ると、個人の外在場と国の内在場は政治的文脈においては重なり、
代替不可能な内外事情にしか応じない主体像(同種の他との共通要素捨象に十分さらされた個別性の下で生じてるのあれば、
気まぐれのようなものであろうと応じるこれ)と整合してる獲得喪失有り様しか肯定されない
(当然、情報獲得についても言える為、対人であれ対文章であれ、対象理解の不十分さも代替不可能な内外事情にしか応じない実存の下でしか肯定されないし、
その主体像を対象に求めた場合の結果にも言える)との理解を、プレーヤー立場と管理者立場が他方に要求し合う関係である両者が共有しない限り、疑似問題や疑似解決に過ぎないと思います。
なので、代替不可能な内外事情にしか応じない実存に否定的反応を示す人の経済観や政治観に、
あるいは、社会的地位(財サービスのこれや権力そのものも込み)に対して採ってる態度に付き合うのは止めましょう。
また、その実存を生きてる程、認識場の個別性からその人が存在するのと引き換えとは言えない要素が削ぎ落され、
認識場の個別性への立脚における存在にかこつけた帰属操作の側面が下がる(無意識と意識の関係を抽象化具体化交互反復として見れば、
注力的問題解決である意識における注力有り様が局面の固有性と着目無視の設定とを一致させたものである程、実験精度の高い検証結果を仮説にフィードバックしてる形になる)為、
そのような反応を示す人は、需給成立だけでなく認識(置かれてる場に通用させ続けるという存在課題の具体化や達成度評価)においても、
肥大化してない実態を根拠にする働き(具体化精度確保)の不在からくる弊害を抱えてると捉えましょう。
むしろ、対文系事象の地平が、肥大化した個別性を根拠にするデカルト系か個別性捨象を展開するカント系の二択に縛られてるから、政治経済での疑似対立が未だに保存されてるのだと見るべきでしょうし、
具体化精度を上限化させる方向性をもってデカルト系カント系の同時否定を達成しない限り、文系における抽象化の試みは、
実験精度の低い検証結果を仮説にフィードバックしてる仮説改悪の形であり続けるわけです。
つまり、ヘーゲルの修正点を、矛盾関係でありさえすれば個々の具体化精度の高低について気にしない点でなく、
抽象重視の傾向とした取り違えの影響、抽象度向上の形骸化が保存されてしまうこれを無くす
(現実重視や物質重視、実践重視、事実重視に反転させた哲学の系譜の権威を文系領域で低下させる)為にも、
認識場の個別性が代替不可能な内外事情にしか応じない実存の反映であるか否かを、
認識場の産物が受容に値するしないの根拠とする方向性をもって近代をやり直す必要があると、
抽象度不足のまま事態を洗練させる事で生み出されたいらぬ対立(特に、帰属修正が知性倫理美意識の実質であり、
内外境界の登場を意味する有限の与件性、より確からしいものが取って代わる運動性、この両者だけから成る帰属関係が修正限界である、
したがって、現象してるものを構成してる内在性質と外在性質における修正余地なさを、
存在現象や認識現象に対する受容条件としてない知性倫理美意識は不全であると認めていれば生じない、
帰属操作を正当化してるだけのポジション割り振り)に付き合わされ続けてる現状、
つまり、取り組む問題を取り違えさせられてる状況(当然、代替不可能な内外事情にしか応じない実存を、
問題に対する具体的反応の具体化条件というポジションに置かない割り振りも帰属操作の正当化)に対して修正余地を認める場合、言えるはずです。
思うに、先の同時否定(肥大化してない実態の根拠化)を達成する上でのネックは、
個別性を同種の他との共通要素捨象に十分さらし、根拠に値する状態へと持っていく必要性への無理解ですから、
個別性が根拠になる局面における反応の問題と捉えて、局面と着目無視の合致状態から見た反応の過不足を否定した帰属修正の下での、
対他者(平等)はじめとする対現象(自由)であるかどうかで自他を評価する対人理解
(非対等性を局面の性質の反映のみに抑え、個々の局面の反映を超えてたり越えようとする価値付けに付き合わない態度に、
ひいては、肥大化した権威や場と齟齬のある競争協調関係から知性倫理美意識が解放されてる状態に繋がるこれ)を、
そのネック(近代の再生産が肯定的に評価される空間の保全、もっと言うと、より確からしいものが取って代わる運動性に対し代替不可能な内外事情にしか応じない実存でもって対峙してない人、
言い換えるなら、その運動性に対しいらぬ阻害を持つ人の文系事象に関する確からしさについての主張が通ってしまう空間の保全)への対策として、
小学期からの養成対象(少なくとも、文系者になるなら必要なもの)に位置づけ、
標準像(実態肥大化も実態無視もあり得る)とズレてる部分に対し大騒ぎしたり見て見ぬ振りさせたりを恣意的に使い分ける既存の教育に取って代わるものとしましょう。
注
より確からしいものが取って代わる運動性を無限性と捉えれば、この運動性(常に確からしさの上限である事を意味するこれ)に代替不可能な内外事情にしか応じない実存でもって対峙してる状態は、
宗教的には、理想を犠牲にしてる程度を最小にしつつ成立させてる現実、という内容を信仰に持たせる事で信仰の形骸化を防いでる状態と見なせます。
この実存は有限性(内外境界発生)にその運動性を最大限働かせた結果(例えば、問題意識の疑似問題化の抑制を最大化するなど、その運動性受容の阻害最小化)を生きてるとも言えますから、
獲得喪失有り様とこの実存との整合、というこの実存を生きる限り避けられない事態は、
願っていなくとも、獲得喪失有り様を神が決めてるようなもの(思うのも獲得なので、言わば、デカルトのアレと前後逆の関係がズレて重なってる)に思われますし、
願ってる場合も、場と齟齬のある協力関係はその実存をもって否定されるので、そこに歪な関係性を見る必要はないように思われます。
もちろん、デカルト系もカント系も、実存有り様に修正余地なさを持たせてる形であるその実存を要求しませんから、
どちらであれそこで想定されてる信仰は上の内容(神との繋がり方)と別物です。