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個人的に使ってるある表現の再検討から始めて、後半は自己や個人の尊重における方向が逆な二つの内、一方を支持する理由づけに挑戦

2020-9-001

(前半は20-6-005を要参照)

差異に対して大騒ぎも見て見ぬ振りもせず、状況上自然に振舞う
(場との齟齬を防ぐ配慮の下に着目無視、つまり、次元設定や形式設定含めリアクションしてくスタイルで、
囚われ、振り回されという低通用状態やその反映としての影響を、正負共に避ける、
事実上、その場その場の性質の把握精度へと、扱う扱われるに関する問題点を転回する)という有り様は、

場次第で、表層形が大騒ぎ寄りにも見て見ぬ振り寄りにもなる為、
表現として同時肯定(選抜の必要不必要判定や必要局面での恣意の除去版)と言えなくもないとは思うものの、

個人的には、どちらにも属さないというニュアンスを付したい
(内面場の産物、局面場との齟齬解消、感情と理性をそう見なして上下論から場の性質把握の論点化に転回等)
ので同時否定という表現の方を適切と思ってます。



例えば、真面目と不真面目、どちらの側面も持つとのニュアンスのままでも小学生までなら十分現実的であれ、
中学に入れば、生真面目と不良、どちらにも属さないというニュアンスの方が適切のように思うわけです。

実際、何らかの仮説をより確からしくする(通用を行き渡らせにいく)のに必要な、
捨象対象というものに対して適切な捨象ができてる、
つまり、仮説(原理)の通用が行き渡ってない事意味する要素に閉じない
(その要素取り込んだ全体を改めて捨象する)有り様にとって、

規則なり現実なりに対し、盲従してたり大騒ぎ的に反発してたりの様からうかがわれる閉じてる感は、
否定対象の関係になる(閉じているいないの差異を確からしさの差として取り上げる場が設定されてる)ので、

対表現物含め、対人における捉えの精度の要求水準が、
実社会との距離が縮まる(主張への是非判定の影響が大きくなる)のに比例して上がるほど、
対象が持ってる価値観なり世界理解なりに見られる、いらぬ限定、引き受けざるを得ないとは言えない限定
(その人に特有の有限性の形に、有限性受容に対するいらぬ飛躍が含まれてる事態)の内容特定が、
できる(閉じてる感への否定的態度や敏感さは前提)に越した事なくなるという事情も考えると、

閉じてる感を良く浮かび上がらせる
(その分、対象の全体像の把握精度が上がる為、解釈や価値付けに先立たせておきたい)、
同時否定のニュアンスの方がより適切だろうと思います。



また例えば、絶対主義と相対主義を振り子してきたように見える欧米(世界主導ポジション)や、
極日常的に空気を読む日本(とその表層反転としての欧米等)との対峙(知性や倫理の傾向と対峙)に際して、
場に合わさないスタイル、場にその表層的性質込みでも気にせず合わせるスタイル、

そのどちらとも異なる点を強調的に踏まえて、場の本質(代替不可能な固有性)にのみ合わせるスタイル
(いる飛躍を確保してる、言わば、嘘を一切つかないと嘘を無闇につくの同時否定形)を捉える
(体系が実際に体現してる性質と場の本質とのずれ、つまり、検討済み価値設定の体現失敗を、
その体系が抱えてる修正すべき歪みとする)上でやはり同時否定が適切に思います。



別の角度から言うと、
二極併記は確かに、表層的には全体をカバーしてる形になるので、
質を下げない、常に80点を保持する高原形を作るテクニックではあるでしょうが、
80点では物足りない者が、ノーガードで山に登るから100もあれば0もあるスタイル
(前者に閉じてない上に実際、可能性も感じさせるがその性質上、後者も十分起き得る)の方に、
より親和性覚えるという事も起きてくるはずですし、

余裕も実力もあるので戦える者が戦える範囲
(泣き寝入りを強いられてる形にならないよう、フェアな割り振りでの役回りの範囲)でそうしてくれるなら、
その分、戦えない者が負う量は増えずに済む、
それぞれが課せられてる条件における最善
(理想と現実の安易でないバランスに相当し、先の嘘をつくと同じ構造の問題)を集めた地平に平等を見る、

そうした理解を踏まえると、二極併記のような戦略が、
一番手に選ばれる(何であれ選抜の確からしさはフェア担保具合)には付け加えられた条件が必要で、
付け加えられた条件がなくても第一選択肢に当たるかのように扱うのは妥当でない気がします。



以下、後半

ところで、原理への、
特に、対問題含めた、扱いについての原理への不断に確からしくする志向自体が、
Aは悪用するけどBはしないとかBを十全に尊重できてる、これが可能かのように振舞ってる有り様に対して、

仮説と実証の行き来にとり有害な、抽象と具体のいずれかの価値を上にする態度を、積極的に採った結果の満足な場合もある、
林檎は数えられるが蜜柑はできない的状態の、数を数えるで満足してる的パターンのいらぬ限定をそこに見出し、
反面教師としてるようなものではないかと疑います。


ちなみに、ヘーゲル乗り越えの完了は抽象と具体の価値対等な歴史観、体系観への置き換えだけでは形のみで、
抽象化と具体化の精度最大化(捨象対象と局面要請の齟齬を防ぐだけの、場の性質の把握精度問題に帰着)を付随させる

(静と動は、抽象と具体の行き来における見かけの違いに過ぎず、あくまでも論点はそこの精度、
社会にせよ個人にせよ、特定の表層形が望まれようと、精度最大化を担保しつつの変遷しか認めるべきでない、
といった理解込み)ところまで含めないと十分でないと考えます。


また、その反面教師の構図は、
自分や個人の尊重における方向が逆な二つの立場の関係にも拡張可能と期待します。

有限性(内外境界)を与件としつつも、内在外在共に代替不可能な要素にしか応じない、
振り回されを最小化してる(注力傾向も確からしい根拠が伴ってる)この有り様
(場に通用させ続ける生作業にとっては、先の三者スタイルの構図を踏まえた内容への変換に相当)を、
拒む、少なくとも、存在性(演出強調形含む)の確からしさに紐づけさせないという方向は、

できるだけの事したが駄目だった的に有限性の形を確定させる、
精度最大化で抽象化具体化を相互に繰り返す歴史性の範囲に有限性の可能性(変化や多様性)を制限する、
情報や技術の獲得に際する枠組みインストールを認める認めないに確からしい根拠を求める(特化への制約)、

これらの拒否でもあるでしょうから、注力傾向の振り回され度と無関係に、言い訳目的で本気出さない的な、
仮説の実証における具体化精度を意図的に下げる事で、つまり、仮説の確からしさ向上を二の次にして、
確定(引き受け)や制限制約を回避する戦略と同じ構造を持ってしまう気がします。

しかし、先の反面教師の例から見て、仮説(原理)の確からしさ向上を大した根拠なく放棄する場合、
扱いの原理についての確からしさ向上も弛緩
(実際、特定のいらぬ飛躍、自分が持たせた形のそれを、そうでないかのように扱う恣意が混入)し、
それがたとえ自己や大切にしてるつもりの何かであろうと、対象の十全な尊重には疑問符がつくわけです。


他方で、その振り回され最小化な有り様であれば、
場に置かれるもの全員がそうである場合の、
損得や役回りもフェア(その場において着目されるべき差異と実際に問われてる差異が合致)な割り振りを合意点としてる、
そうした泣き寝入り強要最小な、他者を呼び込むに値する秩序(に自己が置かれる像)と整合的ですし、

無限性と有限性、それらのみを根源的与件とする、実質的にその二つにしか頼らない世界像とも整合的です。

つまり、自己の有限性を最大限代替不可能化する(やむを得ないものにする)のに必要な、
より確からしいものが取って代わる運動性(無限性)を阻害しない配慮は、
理想を割り引く程度を最小化(理想と現実の安易でないバランス)する形での無限性の尊重であり、
次の世界像(悪用が生じてないルート)を有限者の立場から見たもの、そう考えるわけです。

無限性が、自身に限定を強いる有限性
(無限性が自身足るべくフィードバック込み、つまり、確からしさ向上込みで要請してると想像)に対して、
有限性(具体化条件)への最大限の代替不可能化(代替可能要素の削ぎ落とし)という形で、
自身(通用領域の広狭と確からしさの相関、より確からしいものが取って代わる運動性)を統合させてるなら、
限定が生じてるにもかかわらず、全体としては通用が行き渡ってる状態が選ばれてる
(選択は不当な扱いを為してない)ので、善は損なわれてない
(抽象具体関係構造を用意し、かつ、形骸化防いでる像なので、理解や自由における実質の内実ではと期待)。


加えて、いらぬ枠組みインストール(不必要に閉じてしまう感)に対する鈍感さやいるいらぬ判定精度不足は、
対パラダイム(捨象や差異取り上げに関するそれは、理解についての理解にも関わる)や対常識、対権威に、
不利ですから、少なくとも、それらの逆と整合的な有り様の方が、

特定時空性要素への盲従(自覚なき泣き寝入り)や反転反発(過剰乖離による場との齟齬)を回避できてる形
(視野の限定を一旦解除してから、検討された局面事情にのみ合わせた限定にし直す的処理を、
特定時空性に合わせた加工に関して施したものと実態とのずれが、引き受けるに値しない部分扱いにある状態)
へと自己を持ってく余地を奪ってないと言えると思います。

(冒頭の転回も、いらぬ問い枠組みからの脱却の形であり、閉じてる囚われてる事態への対策の帰結であって、
無限性と有限性、それらのみを根源的与件とし、両者の関係すらそれらのみから引き出されてる、
つまり、それらにのみ頼ってる状態と言える形に、パラダイム等を、ひいては、
既存パラダイムに世界標準が縛られてる、その流れで人類の為せる解決含め対問題を縛ってる、知性や倫理を、
有限性の受容に際しいらぬ飛躍を許す事で、通用してるしてないについて取り違えてる根拠感覚を、
持ってく一環でもあるように見えます。)

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欧米文系からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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