未だに近代秩序の枠内で話を済ませようとする既存権威を、振り払う際の焦点と、振り払った世界の姿について
2021-7-002
内在不問外在軽視な主体像を、問題解決の前提に据えてるから、
疑似的自己の欲求が通るのを被限定以前(割り引かれる前の理想状態)としつつの、自己の属性と思われるものと外界の有り様との相性の良し悪しを、都合の観点から受容したり拒絶(修正強い込み)したりに留まる
(自他の属性に帰属しないものまで帰属させるなすり付けを含む為、帰属の修正が問題解決の中身になってない)のだと思います。
内面世界で処理してる割り振りと、大小さまざまな社会でのポジションや具体的有り様の規定は、同じ原理であり、
また、疑似的自己からの自己の解放と、社会がどうあるべきかは、最大限代替不可能化した割り振り原理の発現保障としての管理により達成される点で同じ、
この認識に立つ(場に関する抽象具体の関係構造の像について、少なくとも、上の内容になるまで、量的にも質的にも通用領域を広げておく)のでないと、
疑似的自己と言える部分を取り除くのに、つまり、自己を解放しようとしても
(代替不可能なものは引き受けざるを得ないという点でもって、対有限性に関して手を打とうとしても)
いらぬ限界を負うと考えます。
言葉の意味合いやニュアンスの変遷は、使われ方(使われないも込み)の反映、つまり、具体化や抽象化がその内容になってるわけで、
自己の今の姿(感覚の働き方など)が、
内面場や局面場における割り振り原理の確からしさに対する検討が事実上ないままに、具体形を規定された自己を、
フィードバックさせ続けた積み上げの現れになってしまうように思われるからです。
逆に言うと、形式や帰結が場に即しているいないの判断ができてるつもりで、または、各場(状況)に合わせる事ができてるつもりで、
実際は、林檎は数えられるが蜜柑はできない状態でも数を数えるが十全にできてるつもり的実態に留まる(自分を具体化する精度が高いと勘違い)パターンを防ぐのに、
分離で満足する解決センス
(場に合わさない絶対主義と、場にその表層的要素を取り除かずに合わせる、つまり、事実上の何でも有りな為に恣意を許す相対主義の、二択間振り子が典型)、
分離解放の成功体験(近代性バイアス)によって強化されてる内在不問外在軽視な態度
(理解作用不全や不当獲得事態を、枠組み採用の結果として指摘されてなお、採用してる枠組みを修正するようなフィードバックをしない態度込み)、
これら(ひいては、表層的要素と代替不可能要素の分別が不全なままの肯定否定と整合的な世界像)に組みしない方針は必須と思います。
例えば、家電を叩いて直す的解決レベルとか、
本番でも失敗しない(思い出せる等)だけの耐条件変動を獲得できてないまま臨む形とか、
同じ構造持つものをそう見なさず全体像刷新に伴う個々の再位置づけ機会を逸する等を、
修正するかどうかは、その人の内在事情外在事情によるわけですが、
理想を犠牲にする程度が条件上の最小となるように現実を成り立たせる枠組みでもって、話を捉え直すと、
具体形パターンを網羅する志向の下で、表層的要素と代替不可能要素を分別し前者を捨象する処理が、最大限代替不可能化させた内在事情外在事情によってのみ割り引かれる、
という関係として言い換えられるように思われます。
その関係にない場合、AとBにだけ共通してる性質をもってCも含まれる枠を捉えてる的事態が、
大した理由なく放置される(対象位置づけを確からしくする方向の対象尊重がない)以上、
その関係から乖離してる人の、何らかの属性に言及する能力や問題点を特定する能力には、つまり、批判能力には、
疑問符がつくと見るべきでしょう。
(例えば、先の否定傾向のように、代替不可能性に属してるものまで引き受けに値しない対象に含めてるせいで、いらぬ負わされ現象自体を修正対象にしてるとは言えない批判行為は、
冤罪的側面や不当獲得構造を伴う分だけ、帰属の修正という意味では的を外してるでしょうから、
各局面における表層的要素のみ削ぎ落す能力と批判能力の高さとは繋がってると見るべきです。)
ところで、局面把握を踏まえた捨象処理は日常である為、先のセンスや態度の話から分かるように、
近代性という大枠(例えば、権利観)に束縛されてる現世界は、上で言う関係の、不在の帰結とも言えるはずです。
(したがって、内在不問外在軽視を意味する自由観から、最大限代替不可能化させた内在事情外在事情にのみ応じる有り様を意味する自由観への差し替えが、
未だに近代秩序の枠内で話を済ませようとする既存権威を、振り払う際の焦点と想像されます。)
実際、理系者が理系域で見せる帰属の修正と比して、文系者が文系域で見せる理解力が低い直接的原因と思われる、
同種の他との差異を取り出すべきところで、逆にそれを捨象してしまう近代人パターン(理系的捨象に特化させる近代パラダイムの弊害)は、
ヘーゲル歴史観(分離処理への過大評価バイアスが、統合対象と見なした分離物に関する内実の確からしさ不問、つまり、理系的捨象の下で為される具体形パターン網羅、という形で現れてる)に対する修正反応が、
抽象化と具体化条件割り出しの精度の論点化(理系でしか達成されてないこれの拡張)へと至るようなものでは(どの系譜であれなかったし)未だにないという、
哲学の後続者問題(批判能力を生かし切れてない)でもあると考えます。
論理展開や歴史展開を、抽象と具体の行き来として捉え、抽象化や具体化条件割り出しの精度(捨象対象選定の精度)を論点化してれば、
抽象と具体の間の上下論(内面場の産物と局面場に合わせる能力との間の上下論と見れば、感情理性間関係も含まれる)に陥る事もない(両者は必要価値対等)上に、
文系域でも論点化できてれば、つまり、具体形パターンの網羅志向が文理の局面差異に関して機能してれば、
各局面における確からしさに当たるものを取り違えたまま、通用が行き渡るように捨象処理してる(場に合わせてるつもりで実際は勘違い)事態を引き起こす、
同種の他との差異要素捨象と共通要素捨象を、条件次第で選択されるような、それぞれを個々具体とする抽象具体関係構造として、捉える事ができてない状態も、
防がれるだろうからです。
代替不可能化されてる事をもって、負わされるものを受容するし、負わせたものを受容してもらう、これを自他の尊重(帰属の操作が常態な環境を、そのまま浴びないし浴びさせない)と見るとして、
理解力の低さ(誰もが専門外を持つ以上避けられないそれによって負わされるもの、負わせるもの)についてもこの枠組みで捉えるべきだとすると、
最大限代替不可能化させた内在事情外在事情にのみ応じる有り様の反映としての理解力しか、厳密には肯定されないので、
同種の他との共通要素の捨象アプローチを教育(既存の教育ではむしろ捨てさせられる)か自力で得た者以外は、
内実不問故に通用の行き渡ってる内実持つものを選べない(選ぶ事を帰属の修正が意味してない)せいで表層的側面に振り回されてる(同構造持つものへのそう見てない扱い込み)のがデフォルトな文系者はもちろん、
理系域で高い帰属修正(原理抽出込み)能力を見せる理系者も含め、理解力の状態は厳密には肯定されない、となるはずです。
理解力の状態に対する評価を、具体形パターンの網羅志向を都合に先行させつつ、都度、全体像刷新に伴う個々の再位置づけを展開する方針が、
その展開の一具体形として、同種の他との差異要素捨象と共通要素捨象を個々具体とする抽象具体関係構造の獲得(前者捨象特化と言える近代性パラダイムの乗り越え)を取り込んだ上で
(言わば、同じ構造を見出してく内容の既存スタイルが持つ問題点を、静動のような見かけでなく、文理の分別不全に見て修正した形)、
反映された結果かどうかの観点から下せる人を増やす事で、世界を先の関係の帰結と言える姿
(帰属の修正として機能する批判能力が、文系域でも主導する力を持つ世界)に近づけましょう。
例えば、獲得には限界があるとの認知を得た時点で質を論点にする、失敗する可能性があるとの認知を得た時点で受容に値する失敗や成功に限る有り様へと移行する、
これらは、具体形パターンの網羅志向を有限境界線の内と外に関して展開した、全体像刷新に伴う個々の再位置づけ(一具体形として取り込むべきもの)と解せるでしょうから、
知的上層と言える文系者にもそれらが見られない(同じ構造のものをそう見てない)のは、先の関係から乖離してても知的上層になれてしまう事実を意味してると思います
(全体像刷新が過剰に割り引かれてる形なので、最大限代替不可能化させた内在事情外在事情にのみ応じる有り様への志向を、
知性に伴わせるよう要請する事により、改善可能な事態と期待します)。
例えば、余裕が有ったり特に理由がないのに、消費対象や投資対象として、最大限代替不可能化させた内在事情外在事情にのみ応じてる主体像から遠い方を選ぶのは、
その主体像に近いほど信頼する(失敗しないと見なす系の信頼でなく、成功失敗が不当獲得志向の結果でないという信頼)し、
近い主体にとっての存在のし難さを、自身もその主体像から遠ざけない範囲で低減させる、
そうした方針を持たない(内面世界での割り振りが、その主体像への志向を反映させたものでない)為でしょうから、
逆に言えば、現行世界を、先の関係の帰結と言える世界(近代性パラダイムを乗り越えた世界)へと近づけてくに伴って、
消費や投資の傾向も、現在のそれから大きく変わってくとの期待が可能と思います。