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2922文字、なぜ実存の無条件肯定が内容の理念に疑問を持たない人がいるのかについて、尊重の形骸化(実質としての不当な扱い)への感度不足の観点から

2024-9-008

例えば、最善を尽くして失敗した場合は修正余地がなく受容に値しますが、最善を尽くしてない場合の失敗でも、
その人が代替不可能な内外事情にしか応じない実存(自己が存在するのと引き換えでない要素は自己存在に帰属させてない有り様)を生きてるなら、

注力有り様に修正余地がないので、失敗の影響を悪い意味で受けた人にとっても、存在を尊重する限りにおいて受容に値すると言えます。
(意識は注力的問題解決である為、注力精度の上限を意味するその実存を生きてるなら、
精度の低い検証結果までフィードバックする仮説改悪展開を、より良い行動原理の仮説と言える無意識に関して防いでもいます。)


逆に、その実存を生きてないのに、自己存在の帰結であるかのように振る舞ったなら、存在の悪用であり、
存在を尊重する限り引き受けざるを得ない状態にまで持っていってない都合の押し付けが許される世界をその人は体現してる事になります。

その世界は自己存在と世界有り様とが整合してないだけでなく、存在尊重が世界有り様を決めてはいない世界ですから、
その世界を肯定してる形の人は、自身や自分にとって大切なものに対してすら、
存在尊重の反映である扱いを受けられない状況に追いやってるも同然であり、対象によらず形骸な尊重(実質としての不当な扱い)しか持てません。

実存を無条件で肯定する内容の理念はその世界の肯定も含んでしまってるので、
その種の理念に与しない人(特に、代替不可能な内外事情にしか応じない実存を対人の受容条件としてる人)を増やしましょう。

(日本の場合、皆がいらぬ劣勢を負ってるのに和の理念がその状態を保存してしまうパターンを防ぐべく、
優勢劣勢有り様の肥大化を否定してるその受容条件を和の理念に取り込む方向性について、自覚的である必要があるように思われます。

そもそも、優勢劣勢有り様の肥大化に許容的な人が何らかの価値を熱弁していたところで、優勢ポジションの過剰獲得を疑われて仕方ない以上、
その実存を志向してない事実は、理念含め、価値提示を真に受ける必要がない証拠となりますし、

自己が存在するのと引き換えでない要素まで自己存在に帰属させてる状態、および、
検証情報精度の高低を区別しないが故の仮説改悪展開が、その実存の下でない経験のフィードバックによって引き起こされ、フィードバック先の通用領域を自ら狭めてるのに疑問を持ってない状態が意味される為、
その人の覚える、自分に帰属してるべきものがしてない感、人によっては世界有り様に対する不満や違和感をそこから発してるところのこれに付き合う必要もありません。)



ところで、キリスト教や共産主義は秩序を担う立場になると、得る資格を開放するという前提理念を保障しながら、求め続ける者の登場という有限性下での秩序破綻原因を潰す為に、
個人の精神を都合に適う規範に押し込め、実態すら尊重しない方向(それを可能にするだけの権威を保つべく、学問の在り方を都合に適う規範に押し込めるなど込み)に向かう一方で、

需給一致(市場という需給事情の実態)が、求め続ける有り様にとっての限界として働く資本主義は、
金銭化(数回レベルでは偶然でも、一万回レベルでは特定の関係構造に収束するなら、

文系的局面で実存有り様に修正余地がある時の偶然とない時の偶然を等価扱いする等、具体化精度問題を軽視すると具体の価値を見誤り、ヘーゲルよろしく抽象偏重に陥るとはいえ、
個別性捨象を前提としてる理系が必然性の世界となるのはそれこそ当然の成り行きです)可能な対象の拡大を通して、
むしろ秩序を作り変えてきた(建築に用いる数学が高度になる的展開も込み)と言えるように思います。


これらに対し(個別性が根拠になる局面での取り違えな個別性の許容と個別性捨象との二択から脱するものとして)、
代替不可能な内外事情にしか応じない実存を対人における受容条件としてる世界

(場の取り違え最小な個別性に即してない優勢劣勢有り様は内在場であれ外在場であれ認められない為、
規範も欲望も場の個別性を超えられない、もっと言うと、抽象次元が仮説改悪しているいないに関わる具体化精度問題を超えられない世界)は、

獲得喪失有り様をその実存と整合させてない(余裕のない局面を脱してなお次善の策頼りで達成する、
加害者にその実存である事以上を求める過大要求や被害者にその実存である事を求めない過小要求から成る善悪観に従ってる、

強者弱者等のポジションを根拠に帰属関係の操作を正当化する等)なら、その実存を生きてる事にはならない為、
言わば、存在立脚に実質を持たせたり、存在立脚が実質を持ってる状態を維持する試みが、獲得喪失を通して秩序有り様を定めてると言えるように思います。


例えば、鉄棒で車輪のように回ってるとして、タイミング次第で怪我もあるとすると、
手を放すタイミングは個体にとっての存在課題(置かれてる場に通用させ続けるという課題)ですが、

常時生産される主観情報から全体の中の個体という像を、少なくとも、その本質的関係
(これがないと対象が別のものになってしまう要素を有るだけ選抜した上でのそれらの関係構造把握)を構築する事

(日常での姿勢制御並みに無意識的にできる人もいるし、体操選手に至っては難易度を最大化しさえするけれど、
得手不得手はもちろん、いらぬ特化を回避する代替不可能な内外事情にしか応じない実存の帰結をでありさえすれば良く、

その実存と無関係な有限性形態は、より確からしいものが取って代わる運動性の受容阻害を最小にしてないのにこれが自分であると言い張ってる形であり、
修正余地なさという受容に値する条件の意味での内実確からしさの視点が欠けてる証拠です)は、存在課題への反応を確からしいものにするはずです。

上の三つの関係は、優勢劣勢有り様について肥大化を拒んでる類の個々事情の集積を根拠にする事によって、
実態無視の弊害を実態無視な対策で押さえ付けるパターンも、優勢劣勢有り様の肥大化としてある実態が好きに動けるように秩序を調整するパターンも退けてる形なので、
その種の反応(主観客観整合)に、主観情報取り違え最小化と主体集積の要素を加えた方向性の問題解決関係として解せるのでないかと考えます。



対ヘーゲルを、抽象化具体化の精度最大化(の下での交互反復)をもって解決状態とする方向
(当然、代替不可能な内外事情にしか応じない実存は解決状態として扱われる事になり、

理系ではガリレオ時点で移行が果たされていて、文理の違いは、個別性が根拠になる局面では同種の他との共通要素捨象が、ならない局面では同種の他との差異要素捨象が、
場と秩序の整合における必要条件であるという話の反映でしかない方向)でなく、


具体重視(実存、実態、物質、実践、事実等の重視)へと反転する方向で展開してしまった結果、
抽象と具体との間の上下論(精度の低いものを疑似問題や疑似解決として扱う方向性を埋没させる為、

いらぬ振り回されを温存する有害な枠組み)が未だ価値を持ってしまってるのなら、
直接的に役に立つ立たないといった評価基準に哲学自身がさらされる事態は自業自得に思われます。

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欧米文系からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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