哲学におけるある種のパラダイムに対する野放しを是正しない限り、歴史事情との付き合い方を良い方向に変えるのは難しいのでは、という話
2020-6-002
個人レベルであれ国レベルであれ国際レベルであれ、
歴史性による特化(偏り)を、実質を備えてないのに備えてる、あるいはその逆と勘違いしない、つまり、
歴史や現状をやむ得なかったものと誤解したり、あるべき有り様を条件無視で想定したりしない為にはまず、
近代性(検討された内外分離に解決を見るセンス)に由来するパラダイム、
例えば、その局面での確からしさを保証する捨象タイプとアプローチとの、齟齬可能性の高さを齎してる、
同種の他との差異要素の捨象アプローチの領域侵犯と共通要素の捨象アプローチの埋没という知性傾向を、
相対化してる必要があるのではないかと疑います。
そして、その疑いは次の疑いをも意味してるはずです。
内実不問で表層反動する、実質の有無を表層形に先立たせる、
この前者から後者へと移行しないようパラダイムが強いてる構図を踏まえ、
歴史性(抽象と具体の行き来)の紡がれ方に、
抽象化や具体化条件割り出しに際する捨象傾向(パラダイムの影響)の修正等が加えられた方向へと、
また、フェア基底の合意点(損得や役回りの割り振り)をもって、
紛争(人対人以外含む)の落とし込み先としたり、表層的平和(泣き寝入り折り込み)に対抗する方向へと、
世界を、対有限性(内外関係への関わり方は内外境界である有限性へのそれにも響く)を向かわせる上で、
最も責任を負うのは、パラダイムの相対化に直接当たれるところの哲学。
同様に、次の疑いも意味してると考えます。
内面世界や局面や社会、そうした場の形態によらず、
それぞれの場に価値決めの資格を与えた(価値が場を越境するのを防いだ)上で、つまり、
それぞれの場の性質に場に置かれるもののポジションや具体的有り様を規定する基準となってもらった上で、
場の性質把握の深度(例えば、場の本質に即した扱われ方を望まないメンタリティでは、
帰結導出が、ドーピング選手の参加したレースのような事態となる)を論点とする。
(厳密には、代替不可能化させた両性質の統合へと、場に置かれるものと場の、内在外在関係を持ってく。)
この方向性を閉ざす理屈(フェアアンフェア無区別な保障観など、内実を実質検討しないという尊重形)が、
まかり通ってきた(経済や政治にも根拠を与えてきた)原因として、
自他のアンフェア(問われるべき事と着目無視の合致失敗の常態)化の阻止や改善の基盤に、
なり損ねるだけの、哲学の機能不全(ある種のパラダイムを野放し)がある。