強権が次善の策な状況もあるだろうけれど、必要な措置を講じてなかったり、権限行使の資格に難があるケースについての理解は押さえるべき
2019-9-001
香港デモに関するスレへの投稿内容
マウント合戦の歪さを反面教師に、外在事情との上下関係に拘る自由観に代えて、
内在事情も外在事情も代替不可能なもののみ引き受け、それ以外に振り回される事を拒む、
内面も局面も場と見た上で、場の本質にしか応じさせない処理を、
場でのポジション(上手くいってるいってない等)に優先する内容の自由観を通念化させつつ、
規制主体に、場の本質を損なわないように形式や帰結を組み上げる能力を要件レベルで求める事で、
自由と制限の対立を解消させましょう。
(既存の権利観は場の本質との関係を問う視点を埋没させる為、不当な扱いの保存、保障が不可避です。)
教育等を通したその通念化を怠ってるにもかかわらず、強権等の次善の策を正当化するのは、
できるだけの事をしたわけでもないのに仕方がなかったと言ってる形ですし、
要件を満たしてない権限行使、つまり、能力不足の弊害には分捕りもあるわけです。
どんな組織も地位の上下があるなら、また、どんな社会も対人評価への、
その要件の満たし具合という評価基準の導入をもって自浄は可能と期待します。
自由が前者の内容(内在不問外在軽視)で理念化されてしまってるのは欧米人の責任ですが、
奴隷状態からの開放という宗教レベルでの問題意識もさることながら、
場に置かれる(場の性質に即する加工の)前後の関係という観点(有限性の与件性に基づく)の欠落を負う、
プラトンやアリストテレスにまで遡るパラダイムも響いてると思います。
(A=BもA≠Bも、つまり、同一性と差異性どちらと見るかは、局面に即した着目無視次第なわけで、
述語と普遍が同じ括りな時点で理想と現実、主語と述語への哲学的視線がその観点を欠く事は明らかです。)
いらぬ飛躍(自他への不当な扱い含む)が除かれてる(先の処理が機能してる)なら万事OK、
というスタンスで権利観はじめ、概念から世界まで欧米の産物を再構築しましょう。
ご支援の程よろしくお願い致します。