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4413文字、多様性の確保や資格の開放をその内容としてる主張は何が足りていないのかについて

2024-2-005

内面世界や局面といった場でも、生活圏での社会や自国社会や国際社会といった場でも、
場の性質と着目無視との間に齟齬がある下での扱いに対しては、見た目に関係なく不当な扱いと位置づけましょう。

(AさんとBさんの関係が表面上特に問題ないように見えたとしても、内面世界での相手の位置づけや状況ごとのポジション割り振りが、
場のその時点で可能なだけの疑似化除去を施されてない性質の反映としてあるなら、

不当な扱いの発生を認め、施された性質を行き渡らせる整合として立ち上がってる場合の秩序とのズレ部分を修正余地と見なし、
逆に、ズレがないなら、問題があるように見えたとしても、その修正余地なさをもって受容に値するものと見なしましょう。)


個別性が根拠になる局面で、個別性捨象を持ち込むカント的不当性、疑似化具合不問で根拠にするデカルト的不当性、
両不当性を同時否定してない人が、自分なり他者なり自然なりを不当に扱わない事に自分は成功してると捉えてるのを目にしたなら、

問題状態についての抽象度不足(林檎を数えられないのに蜜柑はできてるつもり的原理不在)の事例と見なし、
今なお両不当性を同時否定してない文系空間とそこで為される政治や経済等の在り方についての主張や議論に重ねましょう。




両不当性が問題状態として扱われない(近代性に縛られてる既存の文系空間の外に出ようとしない)原因にはまず、
個別性が根拠になる局面では同種の他との共通要素捨象が要請され(AにもBにも言えるものをAに固有の性質とはしない処理が、

原理や本質と見なされてるものにも、それらの具体化条件と見なされてるものにも、
十全に働いた結果として現象なり実存なりが生じるよう、あるいは、生じているいないの判断がつくよう求められ)、
個別性が根拠にならない局面では同種の他との差異要素捨象(個別性捨象)が要請される、との理解の不在があると思います。

(要請に応えられない状態は自己判断すると事態を悪化させてしまう実力不足と解するべきで、
実際、上の処理の不全は、既存の教育では問題状態とは見なされてはいないものの、
文系事象について具体化条件を外す精度、つまり、抽象化の精度の低さを意味しており、

抽象度を上げるべき局面で明晰化洗練に走ったあげく、いらぬ対立を生み出す有害事例の一つとして、
この両不当性の両極関係も、政治での変化不変化の両極化も捉える事ができると思います。)


ところで、人間形式(カント的根拠)は種レベルの問題解決スタイル、自我(デカルト的根拠)は個人レベルの内在的問題解決スタイルであり、
生は置かれてる場に通用させ続けるという存在課題を生命という形式で具体化した際の個々具体の問題解決の集積で、認識は存在課題を具体的処理レベルに持ってく処理と言えます。

通用の行き渡ってるものを選ぶという認識有り様も、通用の行き渡ってるものが選ばれるという存在有り様も、
通用してる領域の広狭と確からしさとの相関(肯定も否定も依拠してる為に逃れられない第一原理)の産物であり、

何らかの観点の下でこの相関を持ち出してるだけと言える認識に対して、我々ができる介入は観点設定にもこの相関を利かせる事だけです。
(通用の行き渡ってない観点を選抜していたら、第一原理にのみ立脚してるとは言えず、

仮に何らかへの誠実さを自負していた場合に、ご都合主義や抽象度不足の証拠、
つまり、通用の行き渡ってる原理の不在や防げる類の井の中の蛙的状態の為にその自負が形骸でしかない証拠となるにもかかわらず、

対文系事象において欧米文系含めそのような選抜になってしまう原因であるのが、上の処理の不全です。
したがって、上の処理が不全なまま文系的概念含む文系事象を理解してる人は誠実さについて形骸な像しか持てず、
その像を基準とする肯定否定を踏まえた言動は、受容に値しない優勢劣勢の外界への押し付けの側面を持ってしまってると言えます。)


2+3を5とする処理は個別性捨象という観点の下での整合(通用を行き渡らせる)処理と言える為、
2+3を都合に合わせて10にしたり1にするのは冒頭で言う不当な扱いです。

感情選抜や文系事象についての仮説選抜の内実を、ドーピングによる金メダルのような茶番とするのも、同様に冒頭で言う不当な扱いですから、
両者を局面の要請が異なるだけの同じ構造と見なして良いにもかかわらず、現状がそうなってないのは、
今なお文系的な理解力像に、茶番選抜を修正余地として取り出す側面が含まれてない点、

思うに、茶番選抜は、場の性質(この場において何に価値があるのか)が都合の悪いものである時に都合の良い内容に差し替える処理と同等という意味で個々の場への尊重欠如
(場への尊重を原理として持たない以上、自他の内面世界に対してであれ、何らかの社会に対してであれ、形骸な尊重しか持てない証拠)であり、

林檎は数えられるけれど蜜柑はできない的原理不在故の各場に対する不平等をもたらす抽象度不足、
実力を対象に関して持ってる抽象具体関係構造の像の通用性とした時の、対場についての実力不足であるそれが実力不足として扱われてない点


(例えば、余裕がある局面ではあるなりの、ない局面ではないなりの上限があるだけなのに、
振る舞いだったり、本筋と次善の策との関係だったり、局面次第でしかないものの在り方について局面と無関係に語っていたり、

具体化精度の差異に着目しないせいで表層形断罪の常態化に陥ってるその語りをもたらしてる観点の選抜有り様に疑問が持たれないなど、
茶番選抜を取り除いてない主張を文系権威が発信していても権威のままでいられる事実)から明らかです。




別の原因としてさらに、修正余地なさはその時点での解決状態であり、有限(内外境界発生)の与件性とより確からしいものが取って代わる運動性、
これらだけから成ってる状態が帰属修正の上限であるとの理解の不在があると思います。

不在と書いてるこの理解は、自分と対象がどういう関係にあるかとは関係なく
(内外関係への着目は分離処理や統合処理への過大評価、内外性質に対する検討および修正を埋没させるそれに繋がり、

この過大評価空間に近代性も含まれてる以上、両不当性と同じ次元に留まってしまう)、
対象が受容に値する状態(その時点での解決状態)にあるとは、現象を内外性質統合として見た時の両性質が、その時点で代替不可能と言える場合である

(その時点での解決状態を点として紡ぐ、という意味で時間の観点を加えると、
抽象化具体化交互反復による同一性変化性の同時達成を展開性として見た時の、
表面上の変化不変化程度によらず抽象化具体化の不十分さが解消されてる場合、

つまり、限定を受ける前状態の準備とそれが負わざるを得ない限定条件の割り出し、
この両者の上限化によって、限定作用に伴う通用性低減を限定理由の修正余地なさで補填し、
通用が行き渡ってる状態を達成してる場合と言い換えられる)との理解に換言でき、


茶番選抜を、自分や何らかの意味で自分に近いものにとりその結果を受け取るのが望ましいという点を理由に、
知性倫理美意識を受容に値する状態へと持ってく働き(したがって、その理解不在を、
知性倫理美意識に対する抽象度不足の原因)として見た時の、機能してる知性倫理美意識に適ってるとする理解

(抽象次元に立脚する事で、林檎も蜜柑もまだ見ぬものも数えられる的に通用領域の広さを得られるのに、
問題状態について、林檎は数えられるのに蜜柑はできない的に具体次元立脚に留まってる事態)を退けると考えますが、

この更新は事実上、受容に値しないものを負わせてくる他者なり世界なりに対して、
代替不可能な内外事情にしか応じない実存を自他に求める以上の事はできない

(それ以上を求めた時点で、獲得喪失有り様と上の意味で解決状態にある主体像とが整合してる世界を否定してしまうし、
例えば、分かり合えなさについて、自他が完全一致でない以上避けられないそれ自体の有無を論点にしていたり、

受容に値する為の条件である修正余地なさを、この場合で言うと、自他における上の実存具合を、
問う内実次元の埋没に繋がるその大小自体の論点化によって話を表層次元に縛っていたら、
対象現象に対する抽象度不足による論点取り違えである)との理解を受容する事でもあります。


そして、この制約は、内実の確からしさを損なってない表層形でありさえすれば肯定する多様性や開放性と、
その表層形が受ける具体的扱いについて、外在場の疑似でない個別性を損なわない類の整合がその内実である場合に限って肯定する限定性から成ってる(この内容が対人の形で現れてる)ので、

当然、個別性の内実が確からしい(代替不可能な内外性質の反映)かどうかを、
カント的かデカルト的に不問とする聖域化(通用が行き渡ってないという選ばれるに値しない事態)の下での多様性の確保や資格の開放とは別物です。


(宗教からの個人の精神や国家の権威や科学の在り方の分離を近代の始点と見るとして、
科学の在り方以外の3つについては、分離や両極化をもって良しとする発想の弊害である、

存在するのと引き換えとは言えない要素まで存在に帰属させてるせいで、在る事含め存在を根拠にしてる全てに、
受容に値しないものを外界に負わせる作用をまとわせてる事態が、未だに言えると考えます。

なので、個人や国家については、内面世界や自国社会や国際社会に関する冒頭の意味での不当な扱いに繋がる、
代替不可能な内外事情にしか応じない主体像ではない状態やその主体像の集積ではない状態を修正対象と位置づけ、

宗教については、理想ポジションである信仰対象に対峙させる現実ポジションに、
代替不可能な内外事情にしか応じない実存という修正余地なさを持たせた現実を置かないせいで、

理想を割り引く程度を最小にしてる現実という内容を持たせられないでいる信仰を、形骸と位置付ける事をもって、
近代の通用領域の狭さを生んでる発想なり聖域なりの弊害を小さくしていきましょう。)




ちなみに、競技ものに際して相手側の悪手を咎めないなどで、相手側にいらぬ優勢状況を与え、
味方にいらぬ劣勢状況を負わせる者に対しても、求める事のできる上限は同じであり、

自身にも求める事によって、味方への劣勢負わせに修正余地なさを持たせるよう代替不可能な内外事情にしか応じない実存を他者に求める、という主題の具体形は、
表面上は求めてないケースであれ、何らかの修正を働きかけてるケースであれ、求められた者にとって受容に値するものになるわけですが、

この構造はそのまま、過去世代が現在世代に、現在世代が未来世代に、過去自分が現在自分に、現在自分が未来自分に、
さらには、テキストの書き手(過去や現在)が読み手(現在や未来)に、いらぬ劣勢を負わせてる形についても言えると考えます。

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欧米文系からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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