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非難や擁護に対歪み(帰属が操作されてる事態)の働きを持たせるべく、認め、周知させるべき理解について

2021-9-004

思うに、通用領域のより開かれてる感じがする方を選んで生きてる(生きざるを得ない)のなら、
弁護対象は結局、通用領域の行き渡ってるものとなるはずで、


有限性が与件という条件下でなお、通用を行き渡らせる作業として、
抽象化と具体化条件割り出しの精度最大化(限定作用をやむ得ないものにだけ抑える試み)があるとすると、


同種の他との共通要素捨象能力を埋没させる近代パラダイムの枠内で生きてる人は、文系域での弁護対象を取り違えてしまう、

自己正当化も、ある種の閉じ込めである過保護擁護(つまり、自身の幽閉)にしかならない
(自由の確保には、捨象対象選定を局面から乖離させる内容持つ枠組みには頼らない方針の採用が必要)と推測されます。



思うに、能力については例えば、
林檎も蜜柑もまだ見ぬものさえも数えられるのならそれは、抽象次元が確からしい(通用が行き渡ってる)ものである事を意味し、


また、何を数えたとか何も数えなかった、といった具体形自体はどうでも良く、
具体化条件(というか、局面の性質)の把握が正確か不正確かが、
せっかく確からしい抽象次元を持っててもそこの把握精度が低いなら、的確に用いる事ができない持ち腐れ状態を意味する為、
問題であるはずです。


つまり、能力を持つ話は、何ら限定されてない状態の準備、引き受けざるを得ない限定条件の割り出し、
この二つの最大限化(恐らく、世界にある問題は事実上これだけ)から成る枠組みに落とし込んでしまうべき
(そこから乖離させる作用持つ問題意識は捨象してしまうべき)ものであり、

さらに言えば、問題解決(生もこの積み上げ)自体が、
表層形が解決(通用が行き渡ってる状態)に見えるだけな形骸事態(解決できたつもりでしかない)を縮減すべく
(形骸な解決でやってけるぬるい環境に、その環境条件でしかやってけない限定通用状態にもかかわらず、余裕があってなお甘えたままな自己は当然、解決対象)、
問題解決の原理(抽象次元)をより確からしいものにする必要性を抱えてるわけです。


ここで、上の枠組みに相当する、抽象化具体化の精度最大化は、局面の代替不可能な固有性と捨象対象選定との合致に他ならず、

また、近代パラダイムは、文系域での捨象対象選定の精度を損なわせる
(同種の他との差異を、それに帰属しないもの込みの形でしか取り出せなくさせる)作用を持ちますから、


近代パラダイムの外に出てない人は、文系域に関わる能力を深めたり持ち腐れ化抑えたりに、そもそも、文系域での問題解決の働きに、
本人がどう思ってようと、パラダイム由来の限定作用を負わせてる形です。


例えば、認識も生も、より確からしいものが取って代わる運動性を、設定した次元の下で展開させた現れでしょうし、
その次元が、代替可能な要素をできるだけ削ぎ落した内在事情外在事情にしか応じない有り様の反映だけから成ってる場合、その運動性は的確に持ち出されてると言えるとして、

その運動性を無限性と読み替えれば、個々主体の内在事情外在事情から代替可能な要素を削ぎ落す能力を埋没させるパラダイムの枠内にある人は、
言わば、神の持ち腐れとでも呼べる事態に陥ってる
(無限性と有限性の関係正常化に自覚的であれ、正常化させてるつもりなだけの形骸と言える部分を抱えてしまう)と想像されます。



思うに、批判行為含む否定反応が過大なものになってしまう(話を大きくしてしまう)のは、
帰属を修正する能力(知性や倫理)が機能してないからで、
文系域でのその能力を社会は(近代パラダイムを背景に持つ世界標準の教育が支配的なので)育成してません。


例えば、規範を批判する場合に、各場の代替不可能な固有性に即した形式(着目無視、次元設定)になってないから即してる状態に修正する、という話にはせずに、
規範というもの自体が否定に値するかのように話を大きくする理屈であれ、
表層形反転で済ます(内実に手を入れない)解決像が許されるぬるい環境なら通るわけです。

そこまで短絡でなくとも、各場(内在場や外在場)の代替不可能な固有性を損なわせない場合に割り振られる表層形なら肯定する、という前提を持たない批判
(例えば、ルールなり現実なりへの十代前半の見せる反応について、妄信と反動反発の同時否定の規準化も、同時否定の追求における各々の条件による割り引きも、踏まえずに語るなど)
は話を大きくしてる側面(冤罪的側面)を持ってる、

同種の他との差異を、それに帰属しないもの込みの形でしか取り出せないパラダイムの枠内にある人は、
内在場の産物が外在場(例えば、社会)に置かれた結果に対して、批判しようとしてもその側面を含んでしまう、


そう推測されるのに、既存の教育の地平では、その側面の保有を知性や倫理の不全とは見なさない、
つまり、教育をもっては修正されない現状(例えば、政治経済に対する肯定否定反応の形骸性はその現れ)があると言えます。


そもそも、論理からしてこの構造を持ってるわけで、

論理的である事が選ぶに値するのはあくまでも、通用が行き渡ってる状態を保存しつつの表層形変転な論理展開の場合のみ、
理系的局面では同種の他との差異要素捨象から成る次元の維持が、文系的局面では同種の他との共通要素捨象から成る次元の維持が、通用を行き渡らせる処理に当たる、

この二つの理解を、社会に持たせてないから、
理系的捨象による領域侵犯が、あるいは、その侵犯の帰結である不当合理化の例やそれに偽装した例を持ち出して、論理性自体への否定の根拠にする恣意保障が、
(教育に対する妄信と反動反発に重なりつつ)未だにまかり通っているのでしょう。


なので、論理(こうすれば存在性はより良く発現されるだろう、といった判断含む)を上手く使えてない現人類を立て直す為にも、

現象は内在の性質と外在の性質が合わさったもの(与件である有限性と同義の内外境界をもって、前者は必ず後者から限定作用を被る)であり、
代替可能故に内在や外在の固有性に帰属してるとは言えない要素を削ぎ落す程、現象は選ばれるに値するもの(通用の行き渡ってるもの)になる、

つまり、現象は抽象段階と具体化条件の双方に帰属先を持ち、
何ら限定されてない状態の準備、引き受けざるを得ない限定条件の割り出し、これらの最大限化から成る枠組みに落とし込まれる事をもって、
現象は(抽象化と具体化の交互反復である歴史展開や論理展開も)選ばれるに値するものになる、


この理解に沿う持ち出し方を、知性や倫理に関して妨げてる問題意識(これは手放せないといった感覚含む)の捨象を自他に促しましょう。



下で言う文系域の現状を、言わば、持ってる仮説が通用してない事の判明(実験結果のようなもの)と見なして、

文系域で生じてる現象(形骸を取り除けない実力段階での思考なり感覚なりの産物でも、確からしくないものとして扱われるとは必ずしも限らない)を生じさせてる原理、
そこを確からしくする働きが生じるよう、文系域の現水準の低さを認め、また、周知させましょう(ここを阻害する問題意識を捨象してしまいましょう)。


プラトン時点で指摘されてる、理想と現実の関係構造(割り引かれ構造)は、
主語述語の関係構造(主語の切り出しや主語の述語化)と共に、
何ら限定されてない状態の準備、引き受けざるを得ない限定条件の割り出し、これらの最大限化の問題として捉え直されてるとは未だ言えない。

(ここから文系域は、その最大限化の帰結を解決像と見て、最大限化をもって具体の有り様をより確からしいものにする、
特に、具体形複数性や新しい具体形パターンの発見をその機会とする問題意識についての希薄さがうかがえる上、


次から分かるように、その確からしくする試みを実質として可能にする具体化限定化の精度確保のような、局面と捨象対象選定の一致追求、
文系的局面では同種の他との差異からそこに帰属しない要素を削ぎ落す処理に当たるそれに関する問題意識も希薄。)

妄信と反動反発の二択のような、対象の内実の確からしさ高低を選り分けない状態での遠近に、
つまり、量的側面のみに、根拠を見る地平の外に出てない(反動反発での脱出は出た事にならない)者の振る舞いとして、

歪んでいるいない(帰属が操作されているいない)の差異を特にそうせざる得ない理由もないのに無視(理系的捨象)しつつ例えば、愛を推奨する、

といったレベルの言動もあるだろうに、文系域ではそのレベルの主張が延々繰り返されていて、散々まかり通ってもきた。

ご支援の程よろしくお願い致します。