世界の有り様改善(世界の現有り様への否定反応)を空転させる、既存の知的環境(実力観込み)への保全作用をどう弱めるかという話(前半の別版付記)
2022-1-003
通用領域の広狭と確からしさとの相関を、具体的に持ち出す事を可能にしてるところの観点に対しては適用しない、
したがって、第一根拠的に持ち出しておきながらその相関(及び、より確からしいものが取って代わる運動性)のみに頼ってるとは言えないデカルト地平に、
留まってる(観点の限定作用に伴う通用性喪失を観点の確からしさをもって補填する事をせず、通用性を取りこぼすのを自身に許してる)身でありながら、
真理なり世界の真の姿なり、その種のものを優先尊重してます的な主張の類を示してるケースであっても、
通ってしまうのは、文系域が中身のないものでも受容してもらえる、ぬるい知的環境である証拠でしょう。
学者からしてそうである以上、より確からしいものを選抜する能力が高くなるよう育成される教育環境とは言えません。
それこそ、特定時空性による加工をできるだけ剥いだ上で、割り出した引き受けざるを得ない特定時空性を付し直した像とのズレ、
より正確には、抽象化や具体化条件割り出しの不足を捉え、その否定という主題を、代替不可能化させた内在事情外在事情にしか応じない主体像を具体化条件に具体化する、
この対常識(具体化精度の最大化を先立たせてない有り様への、自他の別を抽象化した否定)を哲学科ですら、
絶対主義と相対主義を同時否定(場の疑似でない固有性に合わせるという具体化精度を確保)しつつの、
つまり、フェアな選抜が持つ選抜精度を期待できるだけの問題点把握や過大評価過小評価把握(カバーできてる領域できてない領域把握)を育成してない為に、獲得しません。
(育成されてない原因は、与件である有限性の限定作用に伴う通用領域減に相当する、通用性喪失を限定作用の理由の代替不可能化でもって補う、
何ら限定されてない状態の準備と引き受けざるを得ない限定条件の割り出し、これらの最大限化枠組みに、
理想現実関係を落とし込む事を、プラトンに対する修正なり応答なりとしてこなかった点にまで遡れる、
つまり、プラトン以降の文系の知的取り組みが、通用の行き渡ってる状態という選ぶに値する状態のものを提示できてこなかった原因に当たるものの、弊害の一つとして、
その事態もあるように思われます。)
しかし、文系域での問題点把握の精度が低い知的環境(精度を上げてくれない教育環境)を刷新しようにも、保全作用が強力なので、
そこを弱めない事には、世界の有り様(負わされるに値しないものを負わせてくる状態)改善まで空転してしまいます。
ここで、その作用が保全してるのは、文系域での具体化精度が論点にならない(場に合わさないか、疑似化してる場に合わせるかの二択振り子)状況だと解せば、
具体化精度の最大化を先立たせてない有り様への、文理の別を抽象化した否定の阻止とも言い換えられます。
つまりは、必要な差異を精度良く取り出した実験の結果だけから原理などの結論を導く
(精度の低い実験の結果を、精度の高い実験の結果と同等に扱わない)、抽象具体の関係構造構築と、
先の主体像(フェア志向が内包されてる)を通用性が取りこぼされてない点をもって最善として扱い、また、そうでないものとの間に扱い差をつける
(近いほど信頼し、乖離してまで何かを獲得するのを通用性喪失と見る)態度とが、
同じ種類の問題として取り扱われるのを阻止してる形と言えて、
その結果が、市場や民主制の採用なり、文章読解や表現鑑賞の教育なりで見られる、
反映されるされてる個々事情の、先の主体像からの乖離を問題視せず、乖離の修正形に寄せるルートを潰す実態主義(絶対主義の弊害を相対主義の弊害に差し替えてるだけ)であり、
また、割り引かれへの過剰反応(引き受けざるを得ない有限性の範囲に抑える、いらぬ飛躍除去の内容になってない反応)を修正対象としない
(ある種の立場反転は、主流の宗教によって内実不問に近い形で前提化されさえしてる)世界、
その過剰性に振り回されてる状態に対して解放する(低通用状態を修正する)のでなく放置してるが故と言える、フェアを越えて自他を助ける救済行為
(内実の確からしさの欠如を、表層形の問題にすり替えてる帰属操作の現れ)に、疑問が持たれないレベルで倫理が不当獲得の道具と化してる、
当然、分捕りの正当化(内実の確からしさと無関係な肯定)もまかり通ってきた(事実上の泣き寝入り)世界であるわけです。
なので、フェア志向を持たない文系者を、客観視しない理系者と同等に扱う人、
各場の疑似化されてない固有性に即した、損得なり役回りなりの割り振りへと寄せる処理(体系の再構築込み)に付随する捨象を、客観処理に付随する捨象と同等の個々具体扱い
(捨象不足が実力不足でしかない点で同じ話扱い)する人を増やす事が、
対知的環境保全という主題の中身であると推測できるように思いますし、理想に近い(割り引かれてない)その具体形としては、
文系的局面では、同種の他との共通要素の捨象次元の維持の下での展開を、理系的局面では、同種の他との差異要素の捨象次元の維持の下での展開を求める、
という文理の両極保有枠組み(論理や歴史は、抽象化具体化の交互反復から成る展開と捉える)へと、知的環境を落とし込む働きかけが想像されます。
また、例えば、世界はこういう性質をしてるのだからこれはこうあるべきなのだ的な発想を持つ一方で、
社会によって個人の有り様が規定される(割り引かれる)のを、代替不可能な有限性に帰属してる規定かどうかとは関係なく(つまり、フェアな割り振られである場合も込みで)忌避するなど、
全体によって部分の有り様が規定される(全体の性質は部分にとって場の性質なので、
全体の性質とされてるものが本質的であるほど、その規定形は内実の確からしいものになるし、
具体化精度の高い部分が多いほど、全体の性質は本質的なものになる)件に関する、
その件を抽象次元とした場合の、抽象具体の関係構造が整合的でない(通用が行き渡ってない)事例は、
実力とは、ある領域に関して持たれてる抽象具体の関係構造の像が、現実の複雑さに通用してる程度の事であると捉えると、
単に実力不足を意味してる(にもかかわらず、実力が高い者扱いも環境的に可能である為に、
より選ぶに値するものへと進む道を知的権威が潰すといった、権威というものが生かされてない事態も珍しくない)わけですから、
文系域での実力向上を直接的に担う(知性や倫理が絶対主義相対主義を振り子しない状態に移行させてくれる)のは、フェア志向と選抜
(対象把握の実体である、確立感ある抽象具体関係構造の像における、抽象物や具体化条件に相当する固有性の、その時点での把握込み)の相補関係の保障であると解しつつ、
特化を後回しできる小学期から、フェア志向と客観視を両輪として求める教育の、先の文理両極保有枠組みの初期的具現としての展開を、
個人観の刷新(観点の通用領域広狭が事実上不問であるデカルト地平の、先の主体像の下で認識場を構成する方針による刷新も射程)込みで、希望します。
以下、前半の別バージョン
知的環境を保全する作用が、選ぶ(受容)に値する状態へと世界を修正する上での最大のネックでしょうから、
まずそこを弱めにいくのが、負わされるに値しないものを負わせてくる現世界への、空転でない(問題点を取り違えてない)否定反応と思われます。
正確には、具体化精度の最大化を先立たせてない為に、倫理が不当獲得の道具と化し、文系知性が場から遊離した観点のせいでより確からしいものを取り違える水準で展開される点への否定、という抽象物と、
否定反応の対象においては、文系域での具体化精度が論点になってない点(場に合わさないか、疑似化してる場に合わせるかの二択状況)への糾弾、
否定反応の主体においては、代替不可能化させた内在事情外在事情にしか応じない主体像を具体化条件とする、反応の具体化、
これらをその個々具体としてる抽象具体の関係構造の下に展開するのが、形骸でない否定反応と考えます。
例えば、常識が形骸化してる(状況変わっても絶対主義的に押し付けてたり、現象解釈が表層的だったり)場合に、その形骸性を捉えるには、
特定時空性による加工をできるだけ剥いだ上で、割り出した引き受けざるを得ない特定時空性を付し直した像とのズレを、
より正確には、抽象化や具体化条件割り出しの不足を、捉える事になるわけで、
形骸性を捉える精度が高いほど、何ら限定されてない状態の準備と引き受けざるを得ない限定条件の割り出し、これらの最大限化枠組みに対象を落とし込む能力が期待できますから、
形骸性に対する具体的反応についても、形骸化を回避できると期待できるわけです。
(理想現実関係をその枠組みに落とし込む事を、プラトンに対する修正なり応答なりとしてこなかった点に、
場の疑似でない固有性に観点を即させる事でフェアな選抜が持つ選抜精度を期待できるだけの、
つまり、先の絶対主義相対主義の二択を避けつつの問題点把握や過大評価過小評価把握を、
哲学科ですら育成してない原因は遡れるように思います。)
逆に言うと、その人がどんな主題であれ先の主体像の下に具体化してるのでなければ、
常識やパラダイムといった、認識が持たざるを得ない偏り(したがって、その人の認識)は、
絶対主義的か相対主義的な負わされるに値しないものを負わせる側面を抱えてると言える為、
その人の抱えてるそれと、過保護な都合の押し付け合いの強弱を反映させられ続けてきた世界との押し付け合いの産物へと、現象を矮小化させる事になるわけです。
現象が矮小化されてる世界を帰結させる以上、世界の有り様を改善してるつもりであれ形骸と見なされて仕方ありませんから、
具体化精度の最大限化を先立たせる事に関して、自他の別を抽象化する必要があるわけですが、
そもそも、既存の知的環境の保全作用は、その先立たせを文理の別に対し抽象化するのを阻止してるとも言い換えられるものです。