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3692文字、有用性問題や自己責任論を、上下論枠組みから解放する話

2023-10-002

例えば、ある研究に対し有用性の観点から疑念が持たれたとして、その疑念に対する反応が、
興味なり人生なり研究者の個別性を有用性の上に置くだけに留まって、個別性を同種の他との共通要素捨象に十分さらしているいないの差異を埋没させてるなら、

損得計算を不当合理として批判するのにかこつけて過剰特殊(個別性に帰属してないものまで帰属させてる状態)を押し通す帰属操作であり、
その研究が文系領域なら、学問を帰属修正の体系として見た時の形骸化の側面を含んでると疑えるように思います。


そもそも、限定受ける前状態の準備とそれが負わざるを得ない限定条件の割り出しが上限である時、理想と現実の関係(割り引かれの前後関係)は安易でないと解するとして、

例えば、数学が理系的抽象次元の通用領域を拡張し続けてるのは、ここでの準備に当たり
(ABしかカバーしてない人のAとCもカバーしてる人のAは、Cの分だけ後者の内実確からしさが井の中の蛙性の緩和によって増してる為、
この準備の軽視は、表層だけが問題になってる局面でもないのに表層が同じなら区別しない不当合理状態や、実力向上現象との関係改善余地が大きい状態を示唆してる)、


そこから有用なものが取り出されるのは、Aさんの会社での役回り、家庭での役回り、たまたま入ったお店での役回り等々、Aさんの特定の側面が場に合わせて切り出されるのと同じ話に過ぎず、

同構造はそのまま、研究行為と社会なり個人なりにとっての有用性の関係に言えるでしょうから、有用性の観点は上の上限問題として捉え直すべきでしょうし、


資源配分などの現実的事情を抽象次元にフィードバックする場合も、話が抽象化具体化の交互反復
(言葉が使われ具合によって意味合いやニュアンスを変遷させる的な歴史性)になるだけで、

場が価値を決める(社会や内面世界での存在のしやすさしにくさはもちろん、
大騒ぎや見て見ぬ振りの程度が、局面と着目無視設定との合致状態から見て反応に過不足がないとの意味で、妥当かどうかも場の性質次第である)にせよ、

場の性質が疑似化してると、精度の低い具体化結果を抽象次元にフィードバックさせる改悪展開となる為、
改悪展開を防いでくれる上の上限枠組みに落とし込む必要性から、中身は変わらないように思われます。


ちなみに、文系学問は現状、帰属修正の体系としては、個別性が根拠になる局面で同種の他との共通要素捨象に、
十分さらした個別性を根拠にする反応を基礎と解した時の、基礎から形骸化していて
(同種の他との差異要素捨象とは捨象対象が真逆なだけなので、客観視が可能な年齢以降は歳が言い訳にはならない)、


社会なり個人なりが、この意味での基礎を欠いた文系的体系を、疑似問題や疑似解決の混入した、
真に受けるに値しないものとして扱っていれば、この現状はないわけですが、
この問題に最も責任があるのは哲学であって、哲学の観点からはこの問題は、

プラトンアリストテレス以来、上下論に落とし込まれていた理想現実関係が、
理系ではガリレオ(数学による自然現象の説明)以降、同種の他との差異要素捨象を用いた抽象化具体化の交互反復の枠組み(プラトンアリストテレスの架橋)として捉え直されたのに、
文系版(同種の他との共通要素捨象を用いる枠組み)の捉え直しは未だ達成されてない問題と言い換える事ができ、


近代科学の成功を受けての前者捨象(個別性捨象)の領域侵犯(不当合理による現実軽視の発生)、
通用領域の広狭と確からしさとの相関を、方法的懐疑(徹底性を謳ってる形)の根拠に用いながら、
自我の内実には適用しなかったデカルトの中途半端さが、肥大化した現実尊重の権威化に繋がってる流れ

(意識への着目であれ、無意識への着目であれ、表層の汚れを拭っただけの露呈に留まる限り、この流れの外には出ない)、
この両者から成るパラダイムが、基礎から形骸化してる文系的体系を取り除けない場を齎してる


(冒頭の反応もこの意味で、何ら特殊なものでなく、少なくともガリレオを基準にすると、文系者としては知的凡庸さの証拠になってるし、
不当合理への批判にかこつけて過剰特殊を押し通すロジックを繰り返すだけなど、
個別性捨象と個別性内実無検討の二択地平の持ち主の言動に、哲学の権威が付されてるケースは、上のパラダイムの保護強化になってる)と考えます。




例えば、内実の確からしさ差異に着目しない方向性は、張りぼてを中身があるかのように扱わされる世界、証拠がそろっていても認めなければくつがえらない世界に繋がってるので

(中身があるとされてるものは世界だろうと神だろうと張りぼてとして疑えてしまう状況に繋がる以上、
得る資格の開閉や荒れてるように見える見えない、といった表層形に拘る方向性はその疑念を携えてるとも言えるはず)、

表層形のみが問題になってる局面でもないのに表層形のみで判断する人が、知性倫理美意識の機能してる
(真善美との距離縮減が上限化してる)状況を支持していたとしても、実際には、
帰属操作の可能な状況(真善美との距離縮減に信ぴょう性はない)の方に与してるわけです。


内実に踏み込まない局面(数を数えるなど)以外でも内実を見ない既存の権利観は、この意味で後者状況と整合的であって、

主体の有限性の反映結果について、修正余地のなさを持たせてるもの(例えば、
代替不可能な内外事情にしか応じてない主体だけから成る社会で生じてる不幸)まで拒絶する過大要求、持たせてない段階で受容する過小要求、

この観点(何ができて何ができないかといった有限性形態の有り様に関係なく、
受容に値するかどうかの根拠として修正余地にのみ着目する次元設定)から見ると、


例えば、人権主権の対立構図は、過小要求の産物同士のぶつかり合いによる均衡の理念化で、
負わされるに値しないものを負わされない状況の実現にとっては、本筋でなく、

場の修正余地のない性質の反映結果となるようプレーヤー立場や管理者立場に、
立場なりの責任を果たすように要求する事の正当性を棄損する理念と言えます。


もちろん、この責任要求(後者立場は再選抜までいき得る)にも同じ観点(代替不可能な内外事情にしか応じない点のみを主体に求める立場から見た、
要求の過不足に対する、有限性故の限界についての過大要求過小要求扱い)を適用するべき、もっと言うと、

先の基礎が対内在や対外在で機能してない対象は、抽象化具体化の交互反復として対象を歴史的に見る拡張形(対歴史での過小要求過大要求の対策)も含め、機能してない分だけ修正余地を持つ、

この修正余地の総体(先のAさんの立場に相当)から、機能してる自己(代替不可能な内外事情にしか応じてない実存)を具体化条件として、
具体的な修正対象が切り出される、この内容を持たせるべき(理想現実関係が安易でなくなる)でしょうが、


この内容は、修正対象が自己である場合は、自身が外界に負わせるものに修正余地なさを持たせる対加害の話になり、
他人や国や世界等である場合は、負わされるものに修正余地なさを持たせる対被害(受け手は自身に限らない)の話になるので、

この内容の採用は、自己責任論に対する肯定と否定との間の上下論の類を用いて、
対象有り様への言及を矮小化する帰属操作に、与してないと言える為の条件であると考えましょう。




注1

生は場に通用させ続ける作業なので、生死も、内在性質と外在性質の統合であって、
獲得喪失を代替不可能な内外事情にしか応じない実存と整合させてる(獲得喪失にこの実存を具体化条件とする事で修正余地なさを持たせるいらぬ特化阻止を、達成してる)なら、
獲得喪失の有り様は受容に値する(有限性形態の特化具合は、修正余地がないという意味で具体化精度の上限に至ってる)との理解がそのまま言える対象であると考えます。


ここで、大した理由なく非を認めない過保護状態(証拠がそろっていても認めなければくつがえらない世界への支持)は、
場とポジションや具体的有り様とを整合させるつもりのない具体化精度確保放棄なので、
自己への過保護状態が見られた時点で、生死について受容に値するしないの観点から語る能力を持ち合わせてない事が示唆されるはずです。

同様に、不当合理と過剰特殊との表層形反転二択(内実不問)な地平の持ち主が、
何らかの存在現象に対し、そのまま受容すると何かを取りこぼしてしまうといった主張を為したところで、必要な能力を欠いた言及であると見なせるように思われます。


注2

本文で言う責任要求は、場が自身の個別性に関してより確からしいものが取って代わる運動性を阻害なく受容した結果に対し、
場全体に行き渡るよう、管理者立場プレーヤー立場それぞれがそれぞれなりに振る舞う中での部分的要素とも言えるでしょうが、

この秩序観は、各人の認識場も含む話に拡張可能な枠組みであると考えますし、
その運動性を無限性として捉え直す事で、関係改善を図る対象への非尊重を抱えてるという信仰形骸化問題も、
カバーできてる(この形骸化を防いでくれるタイプの秩序観である)と期待します。

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欧米文系からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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