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政治の働きが誤解されてるのは、自己についての負わせる負わされる問題に関する、ある種の文化の不在が原因でないか、という話

2021-6-004

自分が外界に何かを負わせる事が避けられないにせよ、妥当(帰属先きが確からしい)な負わされまで嫌がる受け手は不当を望んでるわけなので取り合う必要ないと見なして、
妥当と言える形にできるだけ持ってく、自分が受け手側の場合にも、受容拒絶に同じ根拠を用いる有り様を、

その妥当形を各場の代替不可能な固有性に紐づけられてる割り振りと規定しつつ、小学期段階で求めてく事が、
能力の獲得に関していらぬ特化を避けられるようになったり、概念使用に関しても扱いの妥当不当を見る対象に含めたりの、早期達成として必要と思います。

(他にも、理由なく殴ってる形に、自分がなってる可能性から目を背けてる、少なくとも、その可能性下げる働きが弱いままで、他者の有り様にケチつけるなどは、

批判対象が実際に批判に値したとしても、無駄に説得力を下げてる状態と言えますから、批判効果を早期から確保する側面もあるでしょうし、
林檎は数えられるけれど蜜柑はできない的状態を意味する以上、抱えてると言える、
数を数えるが十全にできてるつもり的勘違いに相当する、問題点把握のずれを、早期に縮減させるものでもあるでしょう。)


ところで、最大限代替不可能化させた内在事情外在事情(内在場外在場の代替不可能な固有性)しか引き受けてない状態(自由状態)を、
保持せずに得たものは、能力だろうと思考展開だろうと幸福や満足だろうと問題解決(有り様や選択肢の多様性確保含む)だろうと不当獲得であり、

(これは、主体や主題といった外在場を持つもの全てについての話なので、
例えば、ある言葉が使われ方の反映を受け、意味合いやニュアンスを変遷させる場合の変化なども含む、)

不当な分だけ何かが、負う必要ないものを負わされてるイメージが言えると考えます。

そして、そうした事態は、余裕の有無といった局面事情とは無関係な量先行(質軽視)の現れと見なせるので、

事態発生に疑問が持たれない現状は、理想を犠牲にする程度に対する条件上の最小化試みの欠如なり機能不全の帰結、
つまり、プラトン時点で提示されてる、割り引かれ問題、被限定作用問題に対する解答が、そこの試みの形を未だしてないという後続者問題

(例えば、問題の把握や処理を近代性の枠組みに押し込めてる者しか参加できない知的プラットフォームの問題)と捉えるべきでしょう。


負う必要ないものを負わされない世界(上の自由状態の集積)に近づける働きが機能してれば、
数を数えられるから林檎も蜜柑もまだ見ぬものも数えられる的な意味で、自己についても負わされが妥当な範囲に収まってる状態へと近づいてく、
つまり、機能させにいく事が、自己に関しても対不当負わされに相当するはずで、

それは、
条件が良い時はともかく悪い時は即ダメ的な、端からカバー領域を限定してる点で通用領域の狭い、通用性(確からしさ)の低い存在状態を、
脱却する方向性でもある(無闇な内実不問という捨象傾向故に上で言う自由状態を志向しない近代性はじめ、表層次元で事足りるとするスタイルとは異なる方向)でしょうから、

上の解答状況は、結局、自己についての負わせる負わされる問題を、限定前の通用量最大化と限定後の通用量保存の枠組み
(先の規定の意味での妥当形への志向含む、捨象精度が最大化されてる抽象化具体化への志向)に落とし込む文化の不在のせいであって、

逆に言うと、それの醸成が、質に対する(知的上層の)理解をはじめ、世界の状況を変えてくれると想像されます。


実際、何かを主張してる形な時点で、これは通用領域が広いとの含意があるにもかかわらず、
通用が行き渡ってるものに帰結を帰属させる働きとして知性や倫理を持ち出してない(自己正当化など、それらに先立つものがある)場合、

騙して得る能力しか持ってない状態(騙される者がいるぬるい条件下でしか通用しない限定通用な存在状態)も同然なのに、

文系域での無闇な内実不問(これを分離による解決への過大評価故に強化してる近代性)に疑問持たないセンスの産物である点は同じであるものを、
近代とは別物(乗り越えたもの)かのように思い込ませてきた諸々をはじめ、
それを許してる文化状況があるわけです。


例えば、政治を、
同種の他との共通要素捨象がベース(各場についての条件変動に振り回されない要素の発現保障における、要素抽出作用がそれベース)になってる割り振りへの、
移行や保持の働きに関する対社会性の側面(先の不当獲得を抑える管理)とは捉えず、

5を得るより10を得る方が通用領域広い(確からしい)のだから、2+3は10じゃなきゃ嫌だ(理不尽と見なす)的な願いを、
叶える(形骸な論理展開を通す)働きやその争奪戦(による社会的ポジションかその扱いの変動)のように捉えてるなどで、

負わせる負わされるに関する妥当不当の感覚が確からしい人を増やさない事には、どんな働きかけも小手先でしかない主題なのに、
増やすのを本筋(余裕に応じて割り引かれる)として位置付けてない(近代的権利観をその内実不問性へのケアなく持ち出した時点でそうなる)構想や施策に終始するパターンもその弊害でしょうし、


同種の他との差異要素捨象を無闇(局面の固有性と無関係)に持ち出す近代人フィルター含む、
理系論理と文系論理の差異性共通性への無理解(上の働き不全としての知性、及び、それと表裏である倫理)の現れ、

つまり、論理展開が抽象化と具体化の交互反復による、通用の行き渡ってる状態を保存しつつの表層形変転(限定前の通用量最大化と限定後の通用量保存の枠組みに落とし込まれた加工処理)である点は、
文理で同じだけれど、ベースとなる捨象対象は異なっていて、確からしさ差を意味する差異の取り出しに関し、局面に要請されてる捨象処理の対象が真逆、

この理解の(近代性への妄信によって強化されてる)欠如の現れと見なした上での、
先の不在(特に、局面に置かれる前後関係絡み)の解消が図られるべきでしょう。



以下、注です。

上で、数を数えるという抽象次元と林檎等を数える具体次元との間の関係について二回書いてるけれど、
自分の存在を後者として見る場合の、抽象次元を確からしくする作業はもちろん、利己利他の差がない次元の話であるし、
その作業の帰結の具現形を、最大限代替不可能化させた内在事情外在事情にしか応じない有り様と仮定すると、

その具現形に近づけた自己にとって、近づけられてない有り様の他者なり組織なりの振る舞い
(より厳密には、精度最大化されてる抽象化具体化の交互反復によって紡がれてる歴史を、それらについて想定しつつ、その想定からずれてる部分も前提に含んでる振る舞い)
は否定対象(具体的反応は条件次第)となる上、

それ(外在性質の反映という、有限性の不可避性を踏まえつつ、受容拒絶をどうするかの、単なる状況立脚内面立脚でない対外界方針)と同じ原理で、
その応じない有り様の者が覚える感覚でもって、何らかの情報との距離も決めるべき
(近代性への妄信も現状そこに含まれる、対教育での妄信傾向に対する批判もこの文脈)となるわけです。


また、主張選抜が通用領域の広い方を選んでる形から逃れられない(観点をずらすにせよ、各観点の下での通用領域判定の結果は出せる上、現局面で選ばれるべき観点という観点での通用領域判定はある)以上、

ちょっとした解釈行為であろうと、より確からしいものが取って代わる運動性の現れと見るべきでしょうし、

観点(着目無視)設定の精度が低いまま(理解力が不十分なまま、認識作用に際する割り引きや加工に過不足を許したまま)の対象理解(価値判定などの、通用領域判定含む)に、

余裕有無等のやむを得なさとは関係なく留まる
(理解力の不十分さを提示された経験が直近にあってさえ、つまり、林檎は数えられるけれど蜜柑はできない状態に自己があるという証拠を目にしていてさえ)のは、

その運動性を阻害してる何らかの先行要素(例えば、成立や達成に対して不当獲得の観点がないなどの、歪な量質関係を齎してる拘りなり自覚ない囚われ)があるからなわけで、

それを取り除くのが、限定前の通用量最大化と限定後の通用量保存から成る枠組み(精度最大化した抽象化と具体化条件割り出しに相当)と思われ、

逆に言うと、
その枠組みを持たない(近代性枠組みに固執するなど)段階で為された、文系域での解釈(例えば、論理に対する理解を近代性の外に出さないままの理不尽訴えや正当性主張など)は、
観点ズレの下での選抜物として扱うべきなのでしょう。

ご支援の程よろしくお願い致します。