3541文字、認識論系と存在論系のパラレル性(論理と歴史、理解と実力、論証周りと権利周り)を踏まえた刷新像について
2023-7-001
場を荒らす荒らさないの対立構図も、競争協調の対立構図も、文化や個人の傾向がどちら寄りであれ、
有害である(偽装された受容せざる得なさを負わせる負わされるのを防ぐルートが寸断されてしまう)と認めましょう。
通用領域が広いほど確からしいという、通用領域の広狭と確からしさとの相関は、
肯定も否定も保留もこれを踏まえた選抜結果であり、論理も通用が行き渡ってる状態を保存してるつもりな表層形変転でしかない為、我々にとって逃れる事のできない第一原理と思われます。
散歩しながら物思いにふけるなど、常に内外情報にさらされながら、ある観点(個別性を根拠にするしないという着目無視の反転関係は文理差異になる)の下に、
その相関を持ち出して確からしさ判定をこなしてる認識において問題になるのは、
観点設定自体へのその相関の適用が阻害を受けてる場合、場の管理者の立場(場の性質への疑似化許容は場を尊重してる事にならない)に責任が生じてるという点です。
そして、存在論は、以上を認識論として見た時のプレーヤー立場(外在場に自身を通用させる立場)、
かつ、より確からしいものが取って代わる運動性を第一原理とするバージョンでないかと疑います。
対論理も対歴史も、我々に可能なのは与えられ続けてる抽象化具体化交互反復(展開自体)を、抽象化具体化の精度が最大化されてる状態に寄せる事だけ、という意味で同じ問題構造でしょうし、
その寄せについての理解は、因果性自体への疑念を疑似問題、精神と肉体の関係についての既存イメージを疑似解決として捨象してくれるはずです。
また、理解と実力も、対象に関して持ってる抽象具体関係構造の像という点で同じ内容であって、
どちらも具体形パターン網羅が、具体化精度最大化物に限られる質重視と、具体化精度が問題にされない量重視との二層構造(実力者も余裕ない局面では成立自体重視)であるように思われます。
(例えば、場に合わせる合わさない、場を荒らさない荒らすといった表層形が、
場の疑似でない個別性に合わせた結果である場合は表層形によらず具体化精度最大、そうでない場合は表層形によらず具体化精度無視、
余裕がない局面での量重視はメタ的に質を備えてる一方で、余裕があるのに後者の場合は、
個人と国の間や、国と国際社会の間での統合分離発想から成る上下論がその典型である、外在場による内在場侵略かその逆であり、
場の個別性に対する疑似化部分除去は、場の性質の越境阻止でもあるので、無数にある場それぞれへの尊重に相当する、こう捉えましょう。)
ここで、常識との付き合い方を、現代日本や百年前アメリカなどの具体形を頼りに、特定時空性を剥いだ抽象次元へと遡り、
引き受けざる得ない特定時空性をそれに付し直した像と、実際とのずれ部分を修正余地扱いした上で、
修正余地への具体的反応の具体化条件に、主体の個別性(代替不可能な内外事情にしか応じない主体像の結果でないなら疑似化部分持ち)を用いるべきと認めるとして、
こうした抽象化具体化不十分さ解消の話に、ガリレオ以降なってる理系と違って、
同種の他との共通要素捨象を教育してもらえない文系ではその話に事実上なってません。
この点は論証が、井の中の蛙状態の緩和に伴う個々部分の再位置づけという内容になってない事態
(例えば、ユークリッド幾何学や運動方程式が正しいのとそれらの位置づけなり描像なりが更新されてきたのとは矛盾しないわけで、理系ですら真偽で済む話ではないのだろうに、
加工有り加工無し、内容言及有り内容言及無し、競争場での割り振り協調場での割り振り、利己利他等、
具体化の結果の点で同じもの扱いしてしまえば生じない対立構図が未だ疑似問題とは見なされず、
上で見たような付し直し含む、具体化精度の問題から目をそらされる形となる議論に引きずり込もうとされたりする)の原因でもあると思います。
有限の代替不可能化(受容せざる得なさが装われてるも同然な事態の修正)以外に対し疑似問題疑似解決とは見なさないのも、
有限の与件性の受容せざる得なさが受容条件になってない事態を修正余地とする内容ではない知性や倫理や美意識を形骸化とは見なさないのも、
この論証に関する問題の弊害であるように思われます。
そして、その弊害を、個別性が根拠になる局面での個別性捨象や個別性内実無検討、
近代始点での分離の成功体験によって強化されたこれら(同種の他との共通要素捨象によって疑似化部分を除去する対個別性の埋没、
ひいては、その捨象用いた抽象化具体化の不十分さ解消の不在も強化)から成る
したがって、文系的局面での確からしさを保証してくれない(のに文理共に通用するかのごとく越境的に扱われてきた)論理像の弊害として捉え直した構造は、
権利像にも、認識論系と存在論系の違いこそあれ、同様に言えてしまう状況にあるので、
例えば、人権の普遍性(具体形パターン網羅)や尊厳保障対象の内実(具体形パターンの集積ぶり)が、
あるいは、自己に帰属してるはずのものがそうなってないという理想現実関係(抽象物と具体化条件の関係)を内容とする自由不自由感覚が、
個別性への帰属状態の修正を事実上扱えない(文系的局面での先の二層構造を量重視に限定してしまう)近代パラダイムに落とし込まれてる事態の弊害を抑えるべく、
代替不可能な内外事情にしか応じない実存の採用(能力や情報や可能性の獲得喪失をその実存と整合させるつもりのない、
したがって、いらぬ特化による通用性低減がデフォルトである類の教育論や処世論との決別込み)をはじめとする、上の対個別性が要請されてる
(その要請は、先の意味で形骸化してない知性倫理美意識の働きであり、全ての人が自身の有限性の代替不可能化なその実存を生きるが故に不幸発生が不可避な類に限られる世界への接近上限化の条件であり、
先の常識との付き合い方のパラダイムバージョンにおける頼る必要のない近代性に未だ頼ってるというズレの、
ひいては、文系事象に関する思考が量重視で縛られる矮小化の解消に相当する)と解しましょう。
注1
有限性を与件として認めると、例えば、悪の否定が、割り引くという形で理想との間に生じる距離自体を否定する内容であれば、与件の否定の分だけ過剰反応であり、
悪の肯定が、代替可能な要素込みの現実によって生じた距離を肯定する内容であれば、与件が装われてる形の分だけ過剰反応なので、
真善美の対概念に対する、有限性の代替不可能化が論点になってない態度は、知性倫理美意識の過剰反応な発動
(次元設定自在性という人間性にむしろ振り回されてる持ち腐れ、有限性の代替不可能化の論点化で防げるそれの弊害が、知性や倫理や美意識の見かけをもってまき散らされてる)と言えるはずです。
注2
本文で見た、普遍性と対象保障、近代性に落とし込まれてるそれらを対立構図込みで捉える、
つまりは、個別性が根拠になる局面での個別性捨象と個別性内実無検討を対立構図(ラッセル系譜とニーチェ系譜の関係が典型例)、
特に、過剰特殊への批判にかこつけた不当合理の押し通し、不当合理への批判にかこつけた実態主義の押し通し、不当合理と過剰特殊(実態主義)との間のこの上下論込みで捉える場合には、
論証に関する問題は、表層次元の洗練に腐心して内実次元の確からしさ差異を埋没させる構造についての、
前提の対立関係が疑似であるのに、主張と根拠との整合具合へのコミットをもって成し遂げたつもりになり、疑似論点をむしろ保存してしまう具体形パターン(本文で言及)、
必ずしも秩序立っていない実態の露呈を表層洗練、実態が場の疑似でない個別性に即しているいないの差異の無視
(例えば、有と無の両極持ち状態の曖昧さには言及すれど、曖昧明晰スペクトラム状の点と場との整合具合には言及しないなど)を内実確からしさ差異埋没とする具体形パターン、
これらから成る抽象具体関係構造を踏まえた観点に捉え直す必要が出てくるように思います。
注3
本文で見た、いらぬ特化による通用性低減がデフォルトな教育論や処世論との決別は、
有限能力故にどうしたって限界がある以上、有限性形態(できるできないの有り様)をどうデザインするかが問題になるのに加え、
特に情報に関してはネットの充実前後で(ビックデータ活用可能化前後のAIと同様)文脈が変わろうとも、
デザインされた有限性形態が負わせる負わされるに値する条件(受容せざる得なさを偽装してないと言える条件)として、
存在する上で代替させる事のできない要素から成る個別性が意味される先の実存との整合を、満たし続けてるかが問題になる、
という重ねる感じで問題の疑似化を剥ぐ話のようにも思われます。