世界に見られるいらぬ不幸は、知性や倫理の持ち出され方が矮小化されきた結果だと認め、知性や倫理を、矮小化枠組みから解放しましょう
2020-11-003
内面局面、資質環境の代替不可能な要素を取り出しそれらのみ引き受ける
(これを内在外在間の具体化抽象化の繰り返しの形で捉えれば、
保守革新観点による矮小化はじめ、実質が詰まってるかどうかのみで肯定否定されてるとは言い難い歴史性なり形態を、のみでしつつ詰まったものにする作業を意味し、
詰まらせる為の抽象化具体化の精度最大化に焦点置く態度は、対社会や対真理で見られた、理想状態への一足飛びなり固執による弊害への抑制対策でもある)方向で、
根拠(理想を割り引く際の加工条件や能力形成に関わる興味含む)を鍛えてる(確からしさの向上や確保への志向を反映させてる)のでないと、
例えば、自由や表現や信仰の内容を、実質が詰まってるとは言えない類をもって規定し、
(根拠をできるだけ代替不可能化させてる場合、より確からしい、つまり、より通用領域の広いものが取って代わる運動性は、
その運動性への方向付け作用自体がその運動性の十全反映となる関係で、発現阻害が最小になると思われるので、
自由等についても、引き受けざるを得ないものに関する特定や扱いの意味での、その人の知性や倫理の機能具合を第一としましょう)
その規定に即した振る舞い(詰まってると言える言えないへの鈍感さの反映)を展開するといった事も起きるでしょうし、
そこには、己の非を認めない(原因帰属を誤認する原因の一つ)まま倫理を語るパターンが持ち得る構造、
少なくとも、他者の非(無い場合も)にそこに帰属しない罪まで擦り付け、己の非を無かった事にするケースさえあるという実態に類する構造
(概念の内容を実質が詰まってるとは言えない類でもって規定してる場合、概念に対し無邪気にそうし得る以上、誰もが当事者)があるように思われます。
例えば、特定時空性を(具体形の差異パターンを参考に)できるだけ剥いでから、現時空における代替不可能な特定時空性を付し直したものに相当する想定と、実際に負わされかねない常識とのずれ部分を否定対象と見なし、
否定対象への具体的反応(精神的に距離を取るだけなり、積極的に修正を働きかけるなり)に際しては、具体化条件となる、その人の負ってる条件を代替不可能なものにする
(抽象物と具体化条件の関係にある、内在と外在の事情に対し代替可能要素、表層的要素には応じない有り様をもって、反応に確からしい根拠を与える)、
この意味で対常識一つとっても、具体形の過不足抑制(抽象化具体化の精度検討)枠組みというある種の原理が複数回使われると見て、
批判の類も、その(通用が行き渡ってる状態、実質が詰まってる状態を確保してくれる)原理の適用範囲拡大と精度向上が最大限追求されてる下でのその具体形であるべき
(確からしい原理の不在による事実上の何でも有り状態を防ぎに、つまり、悪用される隙を潰しにいくべき)と捉えましょう。
場の本質に即して割り振られたものなら、その場に置かれてる限り理屈上納得せざるを得ない(偶々その場ではそうだというだけ)一方で、
アンフェア(場の本質に即した割り振りとしての損得や役回りを支持してるとは言えない)主体が影響力を持つ場ほど、割り振られたものを受容する筋合いはなくなる(否定対象となる部分を含む)わけであり、
社会や内面世界における前者を装った後者のパターンが問題(分捕りや泣き寝入り強いの正当化など)です。
それこそ常識的かどうかでなく、あくまで、ポジションや具体的有り様を規定する原理として採用されてるものが、表層的要素に振り回されてるものか、されてない確からしいもの(高通用性)か
(場の表層的要素込みな性質に合わせた扱いか、場の本質に合わせた扱いかを決める、場の性質取り出しの深さ)が論点であって、
市場や民主制にしても、機能すれば場の性質(需給事情)の実態が正確に取り出されるというに過ぎず、
需給事情に直接反映されるところの個々事情がアンフェアなものであればある程、諸々を割り振る原理が表層的要素に振り回されてる形になる、
つまり、割り振りについて場の性質と齟齬を無くするとは言えるものの、場の本質との齟齬解消は何ら保証しない形式なので、
そこを補う(割り振りを受容に値するものへと近づける)べく、自他へのフェア化働きかけが不可欠です。
また、自他の悩み苦しみには、取り上げるだけの価値のないものに取り合わない(代替可能なものをそうでないかのようには扱わない)方向へと持ってく(いらぬ振り回されの除去)対応が第一と見れば、
選抜結果に確からしさを確保してくれるフェア志向を保障すべく、自他へのフェア化働きかけやフェアを越えては自他を助けない方針採択を、
問題解決(自我や文化はそのスタイル)や注力(量的展開)に先立たせる必要があるはずです。
知性(場と齟齬のない構造化による対有限性)と倫理(場と齟齬のない割り振り化による対有限性)は相補的だとして、
先の適用範囲拡大や精度向上への志向と上のフェア志向保障との間にも、相補的な関係
(己の非やいらぬ飛躍を認めない修正阻害含めた、権益保持圧力による話の矮小化、知性や倫理の持ち出し方の矮小化への対策に際しどちらも要請される)を見出せるのでないかと想像しますし、
大半の個人や国が負ってる縛りを、免れてる存在が今なお普通に見られる現実にあって、
分捕りや泣き寝入り強いの被害者ポジションを代えるだけの解決やフリーライダー志向者に付け込まれる隙を残したままの解決で十分、
そう見なしてるも同然な言動に終始する
(その種の解決の帰結ないらぬ不幸についても、規模的に尻拭いを強いる形とならざる得ないケースも当然あるだろう)水準の批判者がまかり通ってきたこれまでの世界の、
負わされてるいらぬ限界を認めるなら、知性や倫理を、矮小化させてる枠組みから解放する重要性は明らかと思います。