朝ドラ、スカーレットとゲームとのつながり(その2)
昨日、朝ドラ、スカーレットとゲームとのつながりについて(その1)を読んでくださった方、ありがとうございます。本当は、ゲーム音楽やドラクエ風の音楽が使われていると思われる理由の1と2があったのですが、昨日は1までしかお伝えできませんでした。1と2はつながりのある内容なので、もう一度最初からの文面を載せさせて頂きます。昨日アップさせて頂いたドラクエやすぎやま先生の話をもう読まれた方は、前半は同じです。申し訳ありませんが、昨日アップの記事を読まれた方は、後ろから、7,8段落から読んで頂くと今日新しくアップしたものとなります。すみません。
以下本来載せたかった全文となります。
朝ドラ、スカーレットに描かれている炎は、何をさしているか?(その1, 2)を読んで下さった方、フォローして下さった方、スキ下さった方、ありがとうございました。
今回、書こうと思うのは、ゲーム、アニメとのつながりです。普通、アニメ、ゲームという並びじゃないのという方おられるかと思いますが、今回は、ゲーム(RPG)でゲーム音楽について多少、つながりをつけて、かつ今後の最終回までの道のりを予想してみたいと思います。
ゲーム音楽といいましたが、スカーレットの劇伴曲は時々は、ゲーム音楽ぽいと思います。ただ私ゲーム経験は、さほどありません。少ないゲーム経験と知っている範囲の中で考えたことをお話しようと思います。私が特に似ていると思ったのは、すぎやまこういち先生です。ゲームのドラゴンクエストシリーズの楽曲で有名です。競馬のファンファーレ等も先生の大事な作品です。亜麻色の髪の乙女等も有名です。基本的にyoutubeで検索すれば、確認できます。私が、確認出来た範囲で一番似ていると思ったのは、「この道我が旅」です。この曲は、ドラゴンクエストⅡのエンディング曲だったり、アニメのダイの大冒険のエンディング曲だったり、します。
この曲をもう少し音符をスーラ等で弾ませて、多少勇ましい曲調にしてテンポを少しだけアップすれば、スカーレットの曲になる気がします。今日(3月26日)も真奈(松田るかさん)ちゃんと武志くん(伊藤健太郎さん)の工房内でのデート中、この曲がさらにアレンジされた曲がかかっていた様に思います。
私論になるかもしれませんが「なぜ、RPGぽい曲、ゲームぽい曲を使ったのか?」、私の考えでいくと、2つあります。
1 人生は、冒険、旅だから。
2 すぎやまこういち先生と喜美子さんの境遇が少しだけ似ているから。
1について説明します。今は、武志くんの病気が治るかどうかの瀬戸際です。発熱も出て来ました。当時だと治ることが困難で、武志くん等も、死への不安を抱えながら、皆に支えられながら、なんとか平静を保ち、時には、装いながら、生きているんだと思います。これは、出演者、皆にとっての冒険です。皆で人生楽しみ、時には、困難を共有し、時には、恋をし、子育てしたり、勉強教えてあげたり、遊んであげたり、時には、酒を酌み交わす。そういう冒険、旅なんだと思います。
ただ劇伴曲の中には、日常生活が描かれたドラえもんやクレヨンしんちゃんの劇伴曲ような優しさも混ざっている様に思います。冒険に困難はつきものなので、「ゆっくり進む、自分なりに進む。進んでもよい。」といった優しさが含まれているように思います。
昨日はここまででした。ここからです。
次の2に進みます。2の意味は、お二人とも(主人公の喜美子さんとすぎやまこういち先生)の経歴の共通点は、この分野なら、この教育というもの(正規教育といいます)を受けていない点です。例えば、陶芸や芸術なら、美大、芸術大、音楽なら、音大、芸術大等です。今なら、専門学校、職業訓練校、窯業大学校のようなものが、各地にあります。
主人公の喜美子さんは、家の都合、お金の都合、父、常治(北村一輝さん)が怪我したり、酒癖が悪かったり等で正規の教育を受けられませんでした。正規教育は、ドラマでは、ジョージ富士川さん(西川貴教さん)の美術専門学校等ですね。でも、家族を助ける為、喜美子さんは、大阪から信楽に帰ってきて、丸熊陶業に就職し、深野先生(イッセー尾形さん)や八郎さん(松下洸平さん)と出会い、絵付けや陶芸を学び、結婚して、息子の武志くんが生まれ、夫婦仲の不和が起こりながら、自然釉の焼き物が完成しました。自分では、どうすることも出来ない境遇の中で、あちこちで周りの人に助けてもらいながら、進んでいる感じです。
次にすぎやまこういち先生についてもお話させてください。すぎやま先生の音楽を聞いたことがない日本人はほとんどいないと思います。ゲームでもテレビで流れる音楽でも、街の商店街で流れる曲でも、あちらこちらでかかっています。
先程、主人公の喜美子さんと境遇が少しだけ似ていると言ったのですが、すぎやま先生も正規教育(音楽なら音大、芸術大)を受けていないのです。このことは、wikipediaにも書かれていますし、たまたま友人と行ったすぎやま先生のコンサートでご本人が言っておられました。「家にピアノを置くスペースがなく、練習ができなかった。」とか、「家にピアノを買う余裕がなかった。」という理由で音大ではなく、理系の進学先へ進まれました。その後、ラジオ局やテレビ局へ就職し、音楽のお仕事もするようになって行ったそうです。すぎやま先生の細かい経歴は分かりませんが、wikipediaで見る限り、旧制中学や高等学校時代に音楽の多彩な能力をすでに発揮されております。(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%81%99%E3%81%8E%E3%82%84%E3%81%BE%E3%81%93%E3%81%86%E3%81%84%E3%81%A1)
今日(27日)もみんなの陶芸展ですぎやま先生の様な、ドラクエぽい曲が流れた様に思います。でも、冒険の荒々しさだけでなく優しさも含まれていた様に思います。学校はなくても能力を発揮出来る人はいるのです。でも、発表の場があったり、またその能力をちゃんと見つけてあげる場、人、評価者、庇護者等、(英語で言えば、メンターとか、ティーチャー等?)がいてあげる必要があるんだと思います。多少なりともその分野で名を挙げた方は、「この子いいセンスあるね。」と思ったら、評価してあげたり、「良かったら、うちに来てみて。来てみない?」って、言ってあげられる社会の方がいいと思うんです。
大学等へ行きたいと思えば、実力があれば、皆行ける世の中の方がいいと思います。ただご家庭の事情等で、そうできないご家庭もあるんです。でもそのお家の子、お子さんも何かしらの能力があるはずなんです。皆の能力が発揮できる世の中の方がいいですよね。
一旦、ここまでに終わりにさせて頂きます。少しだけ感情がいっぱいになってしまったので、ご質問、コメント、いろいろなご意見、ご指摘、ご提案ありましたら、書き込み頂きたいです。