20200831 Cocco「みなみのしまのはなのいろ」
人はデフォルトが明るくも正しくも清くもなんともないから、きっと人は感情と理性の違いに重きを置いたし、歴史は動いたし、表現やら技術やらなにやらをせっせと発達させ続けた。
だから、ダークサイド、とはまっとうな人の道である。
世界がずっと平和に晴れて、緑生い茂って心地よくいやがるなら、そんな世界に人間はずっと転がってればいいんだ。
のんきに転がっていられないから、仕方なく人は起き上がる。
世界は不穏だから、という理由で起き上がっておいて、人はそんな不穏な世界にどうにかこうにか希望を見出そうとする。
8月31日、Coccoのライブがあった。
2020年のコロナ渦を考慮して、配信にて。
ステージに上る前の彼女は、「ダークサイド・クイーンになりたくて」このライブを企画した、と語った。
いつもの、あの観る者の心をどうしても解してしまう、あの無邪気な様子で。
ほどなくして、配信の画面がステージに切り替わると、彼女は言葉通り、軽やかな黒い布地を、大きなフリル状に巧みに重ね合わせた、ダークサイド・クイーンのいでたちで現れた。
彼女は、ダークサイド・クイーンだ。
ダークサイドという、人の当然でまっとうなところから、バレエの手先のさばきでこちらへひょいと踊り出てきた、歌手だ。
ダークサイドからステージへ裸足で着地した彼女は、歌ってみせる。
不穏な世界を映しているように思える言葉の群れが、なぜだか不穏ではなく美しいなにかに変わる瞬間を、とりどりに歌って、見せる。
テレビ画面の前で歌うCoccoを見て、憚る人目がないことをいいことに、好き放題に泣いてひとり嗚咽する女がいた。
開栓2日後、酸化のしすぎを免れ、ぎりぎりいい頃合いの赤ワインの残りを飲み干したら、感受性のタガをひとつふたつ外すことに成功したらしい。
ちょうど彼女は今朝がた、自身の過去にまとわりつく、どうしようもない暗雲を思い出したところだった。起きたら唐突に、自分の過去が嫌になっていた。
別になにか特別に、彼女の過去に対する思いを刺激する事件があったわけではない。
人が毎晩見る夢の内容を「今日はこんな夢にしよう」と選べないのと同様に、朝起きたときの気分だって、「今日はこんないい気分で起きよう」なんて選べない。
画面の中のCoccoが歌った一曲に、彼女はもう十年以上前のある夏のことを想起させられた。
世界がとんでもなく恐ろしくて、自分のことを突拍子もなく呪いたくなる夏だった。その年の夏の彼女は、食事が満足に摂れない体調に陥っていた。一日中床に臥せりながら、Coccoの「クムイウタ」を聴いていた。
彼女の過去にまとわりつく、どうしようもない暗雲のはじまりの頃だった。
その夏以後もずっと、彼女の世界を恐れて自分を呪う気持ちは、去る気配がなかった。
あれからすっかり頑丈になって、何事もなかったように彼女は暮らしている。
朝は規則正しく起き、共に暮らす夫を見送り、自分も仕事に出かけ、定時できっちり帰宅を遂げたら返ってきたら、せっせと夕食の支度をする。
一見健やかな暮らしであり、言葉で綴ってもやっぱり健やかでしかない暮らしであり、つまるところは何の変哲もない健やかな暮らしである。
しかし、彼女は今晩は偶然にひとりで、今朝はなんとなく自分の過去が物悲しい気分で、冷蔵庫には二日前のワインが残っていて、Coccoのライブが用意されていた。
彼女はダークサイド・クイーンの歌を聴きながら、いつかの夏の心地にトリップしてワイングラスを空にする頃にはすっかり泣いていた。
世界の不穏に急き立てられて人は起き上がり、生きることにあれやこれやと懊悩して転げ回る。
起き上がって、転げ回って、不穏に落ち着いていられない人は、そんな不穏な世界にどうにかこうにか希望を見出そうとして、あちらに美しい世界が見えた気がする、こちらに希望が見えた気がすると、その頼りない腕で地を這う。
そうやって、不穏の中を這うダークサイドの力というのが、人の生きる力の本質のひとつなんじゃないかと思う。
今夜Cocco/ダークサイド・クイーンの歌を聴いて泣いている彼女もまた、そんな不穏なダークサイドから這い出す力で自分の生を進んできた。
だから、いつかの夏に聴いたCoccoの歌を、十年以上経っても聴いていられて、そしてCoccoの歌に涙することができるのだ。
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