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ドレスの下のセーター

8〜9月にかけて受講したエニアグラム入門編。
探求。
自分を探求。他者を通して探求。
エニアグラムは、人をタイプにカテゴライズすることではなく、タイプをきっかけにして、自分を知り、自由に生きるための羅針盤。

物事の見方や、受け取り方、捉え方は人によって違うとは頭では理解しているけれど、なかなか腹落ちしない。
多様性、個の尊重を大切にしたい、と心底思っているのに実際のところはできていない自分。
自分自身のことも受け入れていない、ということでもあるのかもしれない。

最近、朝晩めっきり寒くなり、ふと、小5の自分を思い出す。
今は市役所になっている場所に、かつてエンドーチェーンがあった。
そこで、お姫様ドレスを着て写真を500円で撮れるイベント的なものがあった時、私は行きたくて仕方がなかった。
母に一緒に行ってほしいとお願いしたが、断られた。
行きたいなら一人で行ってきなさいと突き放された。
とても悲しかった。なんで一緒に行ってくれないんだと。
どうしても行きたかった私は、結局、一人で行って写真を撮ってきた。

いわゆるポラロイドカメラで撮影された写真を家に持って帰ったところ、母からは「セーター、脱げばよかったのに」
と言われた。
私は、着ていたセーターを脱がず、その上からドレスを着た。
母の一言でドレスを着た嬉しさは消えてしまった。
今思い出すだけで、ぎゅっと苦しい気持ちがやってくる。

あの時、母はどうして一緒に行ってくれなかったんだろうか。
自分が母になり、当時の母のことを想像してみる。
例えば、体調が悪かったとか、どうしても家にいなくてはならない理由があったとか、単に行きたくなかった、とか。
きっとその当時の母にとっての理由があったんだと思うし、私は母とはいつでも要求を受け入れてくれる存在だと思って見ていたんだろう。

では、今の私はどうか。
娘からの依頼や要望、要求に「えー、やだー。お母さん、やりたくないからやらん!」と言っているじゃないか。
理由がある時も、ない時もある。
「なんかやだから、やだー」と言ってしまう。

そうなんだよなぁ。
人には感情があって、気分もあって、いつだってご機嫌でいたいけれど、ご機嫌じゃない時もある。
ご機嫌じゃない理由がどこにあるか、他者には分からない。
親子だからわかるっていうものではないと思う。
別々の個体だもの。
ご機嫌じゃないからといって、それを誰からにぶつけるっていうのは違うし、みやぞんが言うように「自分の機嫌は自分で取る」が望ましいと思うけれど、ご機嫌じゃない時、他者ができることってなんだろう。

あの時、母に断られた時、私は母に何かできたんだろうかと考える一方で、記憶にないだけで、理由を説明してもらったのかもしれない。
断られたショックが残っているだけで、その他の細かいやり取りは覚えていない。
自分にとって印象の強い、都合のより記憶だけが残っているかもしれない。

過去の記憶や、思い込みや、他者からかけられた言葉、期待が、私は心や頭に残りがち。
他者からすると、そんな深い意味があってではなくても、重く深く受け止めてしまいやすい自分。
全部を受け止める必要はないし、受け入れる必要もない。
聞き流したっていい。
どう受け止めて、受け留めたことをどうするかは、私の選択だ。

そうやって捉えていけると、もっと軽やかに生きていけるんじゃないか、と思った。
そんな今日は週の真ん中、水曜日。
ほぼ土曜日もだいぶ幅広い。
ちゃんとしなければ!と思っている私の「ちゃんと」ゾーンは一体なんだ??
謎はさらに深まっていく。
自己探求の旅は長い。


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