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思い出の父の発言 トップ10

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なんで先生がやすこをオール5にせんのんか、先生に聞いたんじゃ。そしたらの、あきやまさんをオール5にしたら、努力せんようになるけえじゃて。

小学生の時だけ、私の通信簿はみごとなものでした。小さい地域の小さい学校でした。でも、体育だけは、よくて4、たいてい3、ひどい時は2。私は運動神経のよさは、上のきょうだいに全部渡してしまったような子どもでした。父は、それを知っていたとは思うのですが。おとうさんが考えた説明というのがミエミエの励ましでした。


おとうちゃんも、やすこといっしょじゃ。

上の続きで、私の学校での成績のよさにふれたあと、付け加える言葉。後に、成人してから、叔父から聞いたのですが、父は、苦手な教科は教室を抜け出しサボっていたそうです。それまで、私は父が英語が全然わからないのは、戦中生まれだからだと思っていました。


おめえが男ん子で、東大京大言わんでも阪大でも目指す言うんなら、なにをしてでも応援したった。


その時の自分の将来の希望につながるような大学、または、ほんとうは、県外の(でも東のだけ)大学に行きたかった私は、ひとりグチグチと、地元の大学に入学した年を過ごしました。その年の大晦日に、父といっしょに酒をくみかわしながら、(我が家で酒が飲めるのは、私たち二人だけです。)自分が、行きたくない大学に入って悩んだこと、4年制大学に行くだけでもぜいたくなのはわかっていること、そして、今日こうして父にも打ち明けて、これでグチグチ思うのはやめにする、と話しました。

涙まで浮かべながら、しんみり聞いていてくれた父が、最後にかけてくれた言葉が、冒頭のものです。これで、しまいにするつもりだった私のグチグチは、違う形になって私をしばらく苦しめました。


うちは男も女もいっしょじゃ。男女平等じゃ。

子供の頃、兄も私も小学校なり中学校なりの頃、父の口からときどき聞きました。ほんとは、と後から言いたいことはヤマほどありますが、父の育った時代、地域、家族、おかれた環境を考えると、こんなセリフを普通に、それこそ本当に男女のきょうだいに聞かせていたのは、すごいと思います。


やすこにもし子どもができたら、捨てずに家に連れて帰れえよお。育ててやるけん。

小学校4年生くらいの時でした。テレビのニュースで、コインロッカーで新生児が見つかり、10代の少女が逮捕されたことが流れました。私と並んで見ていた父が、私にかけた言葉です。


ワシゃあ、寝らあ。


2年半の米国留学を終え、帰国した私を迎えに来た父は、私が、ワープロとか貴重品も全部持って帰っていることを確認して、私がやっと日本に戻ってきたことに大喜びしていました。すぐには言えず、何日かして、米国で仕事を見つけてきたこと、次の月には、そちらに向かうことを告げました。また、口論になるのか、父は手をあげる人ではなかったのですが、なぐられるかも、と構えました。でも父は、私が話し終わると、ふらふらと立ち上がり、上のせりふを口にして、自分の部屋に行ってしまいました。


おめえ、早う寝んと倒れっしまうゆうて、言ようるじゃろうが!

父は、母思いといえば母思いだし、女房が自慢でというと、大自慢くらい、で大好きなのですが、いたわる言葉が荒い、荒い。母は、わりと夜っぴく人で、もちろん父が1日のいつでも、自分の世話をさせようとするからではあるのですが、それを心配しての発言となりました。何回も言ったと思います。おもいやり、も、形は人それぞれです。聞いているだけで倒れそうだと、母がよく言っていました。


おめえはワシの苦労がわからんのか!


受験生の兄と高校1年の私は、ある一週間、やや遅めの毎晩、アメリカのドラマ「ホロコースト」を見ていました。その当時の実験的というか、新しい形態のドラマで、一週間に集中放送で見せるのです。毎日、2、3時間ずつ。アメリカ本土でそうやって放送したので、日本でも同じように放映されました。そして、こんなドラマ聞いたことがないわ、と思われる方が多いと思いますが、そのくらい前の時代なので、ビデオ録画がまだ普及していませんでした。うちには、2台目のテレビもまだありませんでした。そして、うちのテレビは当時、なんと父と母の寝室の隣に。

兄と私は、聞こえない寸前くらいまで音を下げて見ていました。あと1日で、最終日、という日の夜。ナチスの拷問は、画家である登場人物の手をつぶしてしまい、、と、テレビの近くの寝室のドアがバッと開きました。そこで、父が兄に向かって怒鳴ったのが、冒頭のせりふです。兄は、今でも、あの時の父の方が、見ていたホロコーストのドラマより怖かったと言っています。


やすこが総理大臣になっても、家でいちばん偉いんは、へえでも「主人」で。
 

小学生の時の私は、大きくなったら、の大人の定番の質問に、あるとき総理大臣と答えました。すると父がものすごく面白がったので、そのポジティブな反応を受け、私はしばらく、総理大臣を私の定番の答えにしました。父は、そういう私に、上のような見解をさずけてくれました。私はそれからは、自分のほうから、このせりふをつけくわえるようになりました。

時代錯誤、封建的、男女差別、というのは簡単ですし、父は確かに、自分が思うほどは進歩的でなく、どちらかというと古臭い考えにしばられている人でした。でも、そんな封建的な女性蔑視のクソ親父が、娘が、男の仕事の最高峰とも言える総理大臣になりたいと言うのに、それを嬉しそうに聞いていて、総理大臣になること自体は、反対どころか、認めているわけです。私は、父は私が思うほど古いクソ親父ではなかったのだろうと思います。


終わったの、おめえも。


めったに自分からは私に電話をかけてこない父から、かかってきた電話での第一声です。その後に、父は、すぐ「冗談じゃけどの。」とつけくわえました。その日は、私の30才の誕生日でした。

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