きらいな岡山 好きな岡山弁 (3行短文)
でえれえ
でえれえ とこなん おかやま ゆうとこ
ぼっけえ ことやこ なーんも ありゃせん
ええとこ ありゃせん だれもお りゃあせん
うったて
うったて せえよう ゆうけえ したのに
いっこも ええよん かけりゃあ せんわあ
もっぺん してみい? たいぎい わあもう
たいぎな
とうきょう といーし いくのも たいぎな
しんぼう せられえ ええがあ ここらも
おえりゃあ せんのん おかやま やこうな
ほんなら
あんたら どっから きたんで そうかな
ええなあ ええこと ばあして いっつも
わたしら ほんなら ぼつぼつ かえらあ
しわい
なんでえ こりゃあ つくって くれたん?
たべてみ てみねえ ゆうても しええが
へえでも そねえに おいしゅう ねえんで
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3行短文 理昭さん 標準語 しめじさん 共通語
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先日の投稿で、私の母国語が岡山方言だとバラしたら、しめじ師匠からさっそく、岡山弁で書いてみては、と提案をもらいました。すぐ、書きました。3行短文で。機会があれば、エッセイや詩も、やってみたいと思います。
私は、子供の頃から、地元にいる自分が想像できず、高校の後は、どこかに行くことしか考えていませんでした。(結局、思ったより長く地元にいることになるのですが。) 私は岡山という場所が、私のような女の子や女の人に、色々な機会を与えてくれないことに、閉塞感を感じていました。今でも、岡山のことは大して買っていませんが、岡山の言葉を捨てようとか忘れたいと思ったことはありません。
私は自分の世代の中でも、若い頃から、かなりの岡山弁の使い手です。岡山市に住む女子高校生や県外に出てしまった人たちの中には、地元にいる時も、岡山弁をまったく使わなくなる人も少なくありません。でも、私は、いつも一歩岡山に足を入れると、バリバリの岡山弁が勝手に出てきます。地元の私の友人らもびっくりするくらい、同世代の使わない岡山弁さえ流暢に使いこなします。
高校の後は東京や大阪に出ようと思っている同級生が、突然岡山弁を話さなくなったりするのを見るのは、とてもいやでした。だから、私は、自分も県外志向ではあったのに、高校の時から、意識してもっと岡山弁を、さらに多くの表現を使って、もっと大げさに抑揚もつけて、と話すようにしだしました。
私にかぎらず、方言地域で育った人は、ずっと標準語との二重言語で生活をしています。ということは、表現や言い回しが、ほとんどどれも二種類ストックされているわけです。私は、かなり大人になってから詩を書くようになったのですが、岡山方言と標準語の両方が、私の言葉というものへの敏感さを育んでくれたのかなあとも思います。私の詩作に、それが生かされているかどうかはわかりませんが。
今日の投稿に書いたもののなかには、日常語としては私が使わないものや、私の地域や、現在では、使われないものも含まれています。そういう差異は無視しました。岡山の人から見たら、「あきやまさん、そりゃあ言わんで、そがんこたあしたらおえりゃあせんわあ。」と言われるところもあるかと思います。どうか、指摘やイチャモンは、出てきませんように。(なんのことやら、ですよね。)
でも、ま、note のみなさんには、どうせ書いてある言葉は、イッコモ、わからんジャロウし。岡山出身のnote 参加者がもしいても、岡山っ子は、自分が岡山出身だとも、その岡山弁はチゴートルデ、とも、声をあげる人はまずいない、と踏んでいます。
と思っていたら、猫野サラさんという人の記事によると、note 上で岡山出身を公表もし、方言を紹介している人が、4人はいるようです。自分の経験だけで決めつけるのはよくないですね。すみません。いろいろ反省。
上の岡山方言表記に、注釈や標準語訳をつけようかとも思いましたが、タイギーンで、しません。意味がわからなかったら、自分が、文字は読めるがよくわからない外国語の文のように、朗読して音色だけ楽しんでください。中学から聴き始めた、いわゆる「洋楽」を、私は歌詞の意味がほとんどわからないのに、それでも歌っていました。その要領で。
もし将来、岡山方言を使う人に会った時、その歌を聞かせてあげてください。たぶん、「あ、知っとるん?しゃべれるん?」と喜んでもらえると思います。
あ、カタカナ表記にしといてもよかったかもしれませんね。もっと言うと、ローマ字とか。
(*こちらが、猫野サラさんの、方言についての記事のひとつです。シリーズで、全都道府県のが網羅されているそうです。私はこれで、藤井風というミュージシャンについても知りました。今ハマってます。サラさん、ありがとう。)